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日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

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觉醒的小五郎

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发表于 2006-3-21 14:21:27 |只看该作者 |倒序浏览
恩~~多多阅读对日语提高有很大好处~~
恩~~如果大家喜欢就继续~也鼓励大家来发小说0^^0
这个版本把很多读音都标出来了很喜欢~~~



月の影 影の海(上) 十二国記


   一章


   1

 |漆黒《しっこく》の|闇《やみ》だった。
 彼女はその中に立ちすくんでいる。
 どこからか高く澄んだ音色で、|滴《しずく》が水面をたたく音がしていた。ほそい音は闇にこだまして、まるでまっくらな|洞窟《どうくつ》の中にでもいるようだが、そうでないことを彼女は知っていた。闇は深く、広い。その天もなく地もない闇の中に、薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりがともった。闇のかなたに炎でも燃えさかっているように、紅蓮の光は形を変え、踊る。
 赤い光を背にして無数の影が見えた。|異形《いぎょう》の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに|踊《おど》りながら、あかりのほうから駆けてくる。|猿《さる》がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。さまざまな種類の獣の姿をしていたが、どの獣もどこかがすこしずつ図鑑で見る姿とはちがっていた。しかもそのどれもが、実際の何倍も大きい。赤い獣と黒い獣と青い獣と。
 |前肢《まえあし》をふりあげ、小走りに駆ける。あるいは跳躍し、宙を旋回し、まるで陽気な祭の行列でも近づいてくるようだった。陽気といえば陽気には違いなく、祭といえば祭にはちがいない。
 異形の者たちは犠牲者をめがけて走っているのだ。|生《い》け|贄《にえ》を血祭りにあげる歓喜に、小躍りしながら駆けてくる。
 その証拠に殺意が風のように吹き付けてきていた。異形の群の先頭まで、もう四百メートルもない。どの獣も大きく口を開けて、声はいっさい聞こえなかったが、歓声を上げているのだと表情でわかる。声もなく足音もなく、ただ洞窟で水がしたたるような音だけがつづく。
 彼女は駆けてくる影をただ目を見開いて見つめていた。
 ──あれが、来たら殺される。
 そう理解できても、身動きできない。おそらくは|八《や》つ|裂《ざき》にされ、|喰《く》われるのだろうと思ったが、まったく体が動かなかった。たとえ体が動いたにしても、逃げる場所もなく戦う方法もない。
 体の中で血液が逆流する気がする。その音が耳に聞こえるような気がする。それはひどく|潮騒《しおさい》に似ていた。
 見つめるあいだに、距離は三百メートルに縮まった。

 |陽子《ようこ》は飛び起きた。
 こめかみを汗がつたう感触がして、目に強い酸味を感じる。あわてて何度もまばたきをして、そうしてやっと深い息をついた。
「夢……」
 声に出したのは確認しておきたかったからだった。ちゃんと確認をして、自分に言い聞かせていないと不安になる。
「あれは、夢なんだ」
 夢に過ぎない。たとえそれが、このところひと月にわたって続いている夢だろうと。
 陽子はゆっくりと首をふる。部屋のなかは厚いカーテンのせいで暗い。枕元の時計を引き寄せてみると、起きる時間にはすこし早かった。体が重い。手を動かすのにも足を動かすのにも|粘《ねば》りついたような抵抗を感じた。
 あの夢をはじめてみたのはひと月ほど前だった。
 最初はたんなる闇でしかなかった。高くうつろに水滴の音がして、まっくらな闇のなかに自分がただ一人でたたずんでいる。不安で不安で動きたくても身動きができない。
 闇の中に|紅蓮《ぐれん》のあかりが見えたのは、同じ夢が三日続いた後だった。夢のなかの陽子は、あかりのほうから|怖《こわ》いものが来ることを知っていた。ただ闇のなかに光がある、それだけの夢に悲鳴をあげて飛び起きて、それを五日も続けたころに影が見えた。
 最初は赤い光のなかに浮かんだシミのように見えた。何日か同じ夢を見るうちに、それが近づいてくるのだとわかった。それがなにかの群れだとわかるまでに数日がかかり、異形の獣だとわかるまでにさらに数日を要した。
 そうして、と陽子はベッドの上のぬいぐるみを引きよせた。
 ──もうあんなに近い。
 ひと月をかけて地平線からの距離を連中は駆けぬける。おそらく明日か、明後日には陽子のそばにたどりつく。
 ──そうしたら、自分はどうなるのだろう。
 そう考えて陽子は頭をふった。
 ──あれは夢だ。
 たとえひと月続いていても、ましてや日ごとにすすむ夢でも、夢は夢でしかないはずだ。
 言い聞かせても不安は胸を去らない。鼓動は速くて、耳の奥で血液が駆け巡る潮騒のような音がしている。荒い呼吸がのどを|灼《や》いた。しばらくのあいだ陽子は、すがるようにしてぬいぐるみを抱きしめていた。
 寝不足と疲労で重い体をむりに起こして、制服に着がえて下に下りた。なにをするのもひどくおっくうで、おざなりに顔を洗ってダイニング・キッチンに行く。
「……おはよ」
 流しにむかって朝食の用意をしている母親に声をかけた。
「もう起きたの? 最近早いのね」
 母親は言って陽子をふりかえる。チラリと投げられた視線が陽子に止まって、すぐに|険《けわ》しい色になった。
「陽子、また赤くなったんじゃない?」
 一瞬、なんのことを言われたのかわからずに陽子はきょとんとし、それからあわてて髪を手で|束《たば》ねた。いつもならきっちり編んでからダイニングに顔を出すのだが、|今朝《けさ》は眠る前に編んだ髪をほどいて|櫛《くし》を入れただけだった。
「ちょっとだけ染めてみたら?」
 陽子はただ頭をふった。ほどけた髪がふわふわと|頬《ほお》をくすぐった。
 陽子の髪は赤い。もともと色が薄いうえに、日に焼けてもプールに入ってもすぐに色が抜けてしまう。背中まで髪を伸ばしているが、伸ばすと毛先の色がぬける。おかげでほんとうに脱色したような色になってしまっていた。
「でなきゃ、もっと短く切る、とか」
 陽子は無言でうつむく。うつむいたまま大急ぎで髪を編んだ。きっちり三つ編にすると、すこしだけ色が濃く見える。
「誰に似たのかしら……」
 母親は険しい顔でためいきをついた。
「このあいだ、先生にも聞かれたわよ。ほんとうに生まれつきなんですか、って。だから染めてしまいなさい、って言ってるのに」
「染めるのは禁止されてるから」
「だったらうんと短く切れば? そうしたら、すこしはめだたなくなるわよ」
 陽子はうつむく。母親はコーヒーを入れながら、冷たい口調でつづけた。
「女の子は|清楚《せいそ》なのがいぢはんいいのよ。目立たず、おとなしくしてるのがいいの。わざわざ目立つよう、はでな格好をしているんじゃないか、なんて疑われるのは恥ずかしいことよ。あなたの人間性まで疑われてる、ってことなんだから」
 陽子は黙ってテーブルクロスを見つめる。
「その髪を見て不良だと思うひともいると思うの。遊んでる、っておもわれるのもいやでしょ。お金をあげるから、帰りに切ってらっしゃい」
 陽子はひそかにためいきをつく。
「陽子、聞いてるの?」
「……うん」
 答えながら窓のそとに目をやった。ゆううつな色の冬空が広がっていた。二月なかば、まだまだ寒さは厳しい。

  2

 陽子が通っているのは平凡な女子校だった。女子校であるということ以外、なんの特徴もない私立高校。父親が断固として選んだ学校だった。
 陽子の中学時代の成績は比較的よいほうだったから、もっと上のレベルの学校も|狙《ねら》えたし、事実教師は強くほかの学校をすすめたのだが、父親はゆずらなかった。家から近いこと、悪い気風も、反対に華やかな校風もないことが気に入ったらしい。
 最初は模試の成績表を見て|惜《お》しそうにしていた母親も、すぐに父親に賛成した。両親がうなずけば陽子には選択の余地がない。すこし離れたところに制服が気に入っている学校があったが、制服にこだわってダダをこねるのも気がとがめたので、だまってそれにしたがった。そのせいかどうか、入学して一年になろうとしている学校には、今も特に愛着がわかない。
「おっはよー」
 陽子が教室に入ると、あかるい声がした。二、三の女の子が陽子にむかって手を上げている。なかのひとりが駆けよってきた。
「|中嶋《なかじま》さん、数学のプリントやってる?」
「うん」
「ごめーん。見せて」
 陽子はうなずく。窓際にある自分の席についてからプリントを引っぱり出した。数人の女の子が机のまわりに集まって、さっそくそれを写しはじめる。
「中嶋さんってまじめなんだねぇ。さっすが、委員長」
 言われて陽子はあいまいに|微笑《わら》う。
「ホント、まじめ。あたし宿題なんてきらいだから、すぐ忘れちゃう」
「そう、そう。やろうと思ってもよくわかんないし。ダラダラ時間かかって、それで眠くなっちゃうんだよね。頭のいいひとはいいよなぁ」
「こんなの、一瞬で終わっちゃうんでしょ」
 陽子はあわてて首をふる。
「そ、そんなことない」
「じゃ、勉強が好きなんだ」
「まさか」
 陽子は笑ってみせた。
「うち、母親が厳しくて」
 それは事実ではなかったが、こう言っておいたほうがカドがたたない。
「寝る前にいちいちチェックするから、いやになっちゃう」
 母親はむしろ陽子が勉強することをきらう。成績などどうでもいいというわけではなかったが、塾に行く時間があったら家事を覚えなさい、というのが母親の言い分だった。それでもまじめに勉強をするのは、好きだからというわけではない。ただ教師に|叱《しか》られるのが怖いからだった。
「ひゃあ。教育ママなんだ」
「そうなの。勉強、勉強ってうるさくて」
「わかる、わかる。ウチもだよぉ。人の顔見ると、勉強ってさぁ。自分はそんなに勉強が好きだったのか、ってーの」
「だよね」
 どこかほっとしながら陽子がうなずいたとき、女の子のひとりが小さな声をあげた。
「あ、|杉本《すぎもと》だ」
 教室にひとりの少女が入ってくるところだった。
 チラチラと全員の視線が向けられて、そうしてすぐに離れていった。しんとそらぞらしい空気が流れる。
 その生徒を無視するのが、ここ半年ほどクラスではやっている遊びだった。彼女はそんなクラスの|様子《ようす》を上目づかいに見わたしてから深くうつむいた。おずおずと陽子のほうに歩いてくると左隣の席に腰をおろす。
「中嶋さん、おはよう」
 遠慮がちに声をかけられて陽子はとっさに返事をしそうになり、あわててそれをのみこんだ。いつだったか、うっかり返事をして、あとでクラスメイトに皮肉を言われたことがある。
 それでもだまったまま気がつかなかったふりをした。くすくすと周囲でしのび笑いがおこる。
 笑われたほうは傷ついたようにうつむいたが、物言いたげに陽子に視線をよこすのをやめなかった。それを感じながら、陽子は周囲の会話に相づちをうつ。無視される彼女を哀れに思うけれど、情けをかけて周囲に逆らえば今度は自分が被害者になる。
「あの……中嶋さん」
 隣からおずおずとした声が聞こえたが、陽子はこれにも気がつかなかったふりをした。故意に無視する気分はにがい。それでも陽子には、ほかにどうすればいいのかわからなかった。
「中嶋さん」
 彼女は|辛抱《しんぼう》づよく何度もくりかえす。そのたびに周囲の声がとぎれ、やがてその場に集まっていた全員が彼女のほうに冷たい視線を向けた。陽子もそれ以上無視することができなくて、上目づかいに自分を見ている相手に目を向ける。視線を向けたが、返答はしなかった。
「あの……数学の予習やってる?」
 彼女のおずおずとした声に、陽子の周囲がどっと笑いくずれた。
「……いちおう」
「悪いけど、見せてくれない?」
 数学の教師は授業で当てる生徒を前もって指名する。そういえば彼女が今日指名されていたことを陽子は思い出した。
 陽子は視線を友人たちに向ける。誰もなにも言わず、同じ色の視線でそれにこたえた。全員が、彼女を拒絶する陽子の言葉を期待しているのだとわかる。陽子はにがいものをのみこんだ。
「まだ、見直しをしたいところがあるから」
 |婉曲《えんきょく》な拒絶は観客の気に入らなかったようだった。すぐさま声がかかる。
「中嶋さんって、やさしーい」
 ふがいない、と暗に責めている声だ。陽子は無意識のうちに見をすくめた。別の生徒がそれに同意する。
「中嶋さん、ピシャッと言えばいいのに」
「そうそう。あんたなんかに、声をかけられるの、迷惑だって」
「世の中にはハッキリ言わないとわからないバカっているからさぁ」
 陽子は返答に困る。周囲の期待を裏切る勇気は持てないけれど、同時にまた、隣の席でうつむいているクラスメイトにあえてひどい言葉を投げつける勇気も持てなかった。それで陽子はただ困ったように|微笑《わら》う。
「……うーん」
「ホントにら中嶋さんって、ひとがいいんだから。だから誰かさんみたいなのに、アテにされるんだって」
「あたし、いちおう委員長だし……」
「当たるのがわかってるのに、やってこないほうが悪いんだって。そんな奴のめんどうまでみることないよぉ」
「そう。──だいいち」
 と言った生徒は|酷薄《こくはく》な笑みをうかべた。
「杉本なんかにノートを貸したら、ノートが汚れるじゃない」
「あ、それは困るかも」
「でしょお?」
 どっ、と再び全員が笑いくずれる。いっしに笑いながら陽子は視線のすみで隣の席の様子をうかがう。深くうつむいた少女は涙をこぼしはじめた。
 ──杉本さんにも、責任はある。
 陽子はそう自分に言い聞かせる。誰もが理由もなく被害者を決めるわけではない。被害者になったからには、彼女の中にそれなりの要因があるのだ。

   3


 ──天もなく地もない闇のなかに、高く高くうつろに水滴の音がする。
 陽子はその闇のなかに立っていた。
 顔が向いた方向に、薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。その光を背に無数の影が|蠢《うごめ》いている。|異形《いぎょう》の獣の群れが踊りながら駆けてくる。
 群れと自分のあいだはもう二百メートルほどしかない。異形のものたちが大きいだけに、それは恐ろしく短い距離に見える。|哄笑《こうしょう》の形に口をあけた大きな猿の、赤い毛並みが光を|弾《はじ》いて、跳躍するたびに盛り上がってはのびる筋肉の動きが見てとれる。もうそれだけの距離しかない。
 体を動かすことも声をあげることもできなかった。まなじりが裂けるほど目を見張って、近づいてくる群れを見守っているしかない。
 走る。跳躍する。踊るように駆けてくる。吹きつけてくる殺意は突風のように呼吸を詰まらせた。
 ──起きなきゃ。
 あれがたどりつく前に、夢から覚めなければ。
 そう念じても目覚める方法がわからない。意志の力で起きることができるのなら、とっくにそうしている。
 なすすべもなく見つめるあいだに、距離はさらに半分に縮まった。
 ──起きなきゃ。
 歯ぎしりするほどの|焦燥《しょうそう》に襲われる。|身内《みうち》でうずまいて肌を突き破りそうだ。荒い呼吸と速い鼓動と、駆けめぐる血潮が海鳴りに似た音を立てる。
 ──どうにかして、ここから逃げなければ。
 そう思ったとき、突然頭上に気配を感じた。殺意が陽子を押しつぶす勢いで落下してくる。陽子は夢のなかで初めて身動きをした。頭上をふりあおいだ。
 茶色の翼が見えた。同じく茶色のたくましい脚と、おそろしく鋭い太い爪と。
 逃げる、という意志さえ念頭に浮かぶ暇がなかった。一瞬、体の中の潮騒が強くなって、陽子はただ悲鳴をあげた。

「中嶋さん!」
 陽子はとっさにその場を逃げた。体が逃げることを切望していて、思わずそれに従ってしまった。逃げた後でようやく周囲の様子が目に入る。
 あきれた表情の女教師と、同じくあきれた表情の生徒たち。一拍送れて、どっと笑いがわいた。
 ほっと息をついてから、陽子はにわかに赤くなった。
 眠っていたのだ。このところ夢のせいで寝つきが悪く、眠りも常に浅かった。ずっと寝不足ぎみだったから授業中にトロトロしたことはよくあるが、夢を見たのははじめてだった。
 ツカツカと女教師が近づいてきた。どういうわけだが陽子を目のかたきにしている教師だった。よりによって、と陽子は唇をかむ。陽子はおおむね教師にうけがよかったが、いくら従順にふるまっても、この教師とだけはうまくやっていくことができなかった。
「……まったく」
 彼女はそう言って英語の教科書で陽子の机を叩く。
「いねむりをする生徒ならいますけどね、寝ぼけるほどゆっくりお休みいただいたのは、はじめてですよ」
 陽子はうなだれて席に戻る。
「あなたは、なにをしに学校へ来てるんですか。眠いんだったら家で寝ていればいいでしょう。授業がいやなら、なにもむりに来ていただかなくてもいいんですよ」
「……すみません」
 教師は教科書の角で机を叩く。
「それとも、そんなに夜遊びでいそがしいの?」
 どっと生徒たちが笑った。てらいもなく笑った生徒のなかには、友達の姿も混じっている。聞こえよがしの笑い声が左隣からも聞こえた。
 女教師はかるく、ひとつに編んで背中にたらした陽子の髪を引っ張った。
「これ、生まれつきなんですって?」
「……はい」
「そう? わたしの高校の友達にもいたわね、こういう髪のひとが。なんだか彼女を思い出すわ」
 そう言ってから教師は笑う。
「もっとも、その人はあなたと違って脱色してたんだけど。三年のときに補導されて学校を|辞《や》めちゃったの。今ごろどうしてるかしら。なつかしいわ」
 教室のあちこちで、しのび笑う声がおこる。
「──それで? 授業をうける気があるの? ないの?」
「……あります」
「そう? じゃ、時間中立ってなさい。そうすれば起きてられるでしょう?」
 教師はそう命じてふくみのある笑い方をしてから、教壇に戻った。
 立ったまま授業を受けたその時間中、教室の中ではしのび笑いが絶えることがなかった。

 陽子はその日の放課後、担任の呼び出しをうけた。どうやら英語の時間の|所業《しょぎょう》が耳に入ったらしい。
 職員室に呼び出されて、どういう生活をしているのか長々と問いただされた。
「夜遊びをしてるんだろう、と言う先生もいるしな」
 中年の担任はそう言って顔をしかめる。
「どうなんだ? なにか夜ふかしをするような事情でもあるのか」
「……いえ」
 まさかあんな夢の話を他人にできない。
「夜遅くまでテレビでも見てるのか」
「いえ、あの……」
 陽子はあわてて理由を探す。
「中間テストで成績が落ちたので……」
 担任はあっさり納得したようだった。
「ああ、そういやちょっと悪かったな。それでか。──だがな、中嶋」
「はい」
「いくら家で夜遅くまで勉強しても、かんじんの授業を聞いてなきゃ意味がないぞ」
「すみません」
「あやまってもらうようなことじゃないが。中嶋は誤解されやすいんだよ。けっこうその髪の毛が目立つんだよなぁ。それ、なんとかならんか?」
「今日、切ろうと思ってたんです……」
「そうか」
 そう言って担任はうなずく。
「女の子だからなぁ。いやだろうけど、そのほうがおまえのためだとおもうぞ。先生は。染めてるだの、遊んでるだのと言う先生もいるしな」
「はい」
 担任は陽子に手をふる。
「じゃ、帰っていいから」
「はい。失礼します」
 陽子は頭を下げる。そのときだった。背後から声をかけられたのは。

   4

「……見つけた」
 声といっしょにかすかに海の匂いがした。
 担任が不審そうに酔うこの背後を見て、それで陽子もふりかえる。
 陽子のうしろには若い男が立っていた。まったく見覚えのない顔だった。
「あなただ」
 男はまっすぐ陽子を見て言う。年は二十代後半といったところだろう。ぽかんとするくらい奇妙な男だった。|裾《すそ》の長い着物に似た服を着ている。能面のような顔に髪を|膝裏《ひざうら》に届くほど長く伸ばして、それだけでも|尋常《じんじょう》でなく奇妙だというのに、その髪がとってつけたように薄い金色をしている。
「誰だ、君は」
 担任がとがめるように聞く。男はそれを気にしたふうもなく、さらにあぜんとするようなことをやってのけた。陽子の足元に膝をついて、深く頭を下げたのだ。
「……お探し申しあげました」
「中嶋、おまえの知りあいか?」
 担任に聞かれ、ぽかんとしていた陽子はあわてて首をふった。
「ちがいます」
 あまりに異常な事態に、陽子はもちろん、担任もうまく反応ができないようだった。困惑した気分で見つめていると、男は立ち上がる。
「どうか私とおいでください」
「はぁ……?」
「中嶋、なんなんだ、こいつは」
「わかりません」
 聞きたいのは陽子のほうだった。救いを求めて担任を見る。職員室に残っていたほかの教師たちがけげんそうに集まってきていた。
「なんだ、おまえは? 校内は関係者以外は立ち入り禁止だぞ」
 担任がやっとそれに思い至ったように強く言うと、男は無表情に教師を見返す。すこしも悪びれたところがなかった。
「あなたには関係がない」
 冷たく言って周囲に集まった教師たちを見わたす。
「あなた方もです。さがりなさい」
 あまりにも|居丈高《いたけだが》な物言いに誰もがまず驚いている。同じように驚くばかりの陽子を男は見すえた。
「事情なら、おいおい説明いたします。とにかく私とおいでください」
「失礼ですけど」
 誰なんですか、と陽子が聞きかけたとき、ふいに間近で声が響いた。
「タイホ」
 人を呼ぶ語調の声に男が顔をあげる。この奇妙な男の名前なのかもしれない。
「どうした」
 |眉《まゆ》をひそめて男が問い返した方向にはしかし、声の主は見当たらなかった。どこからともなく再び声が響いた。
「追っ手が。つけられていたようです」
 能面のような顔が急に|険《けわ》しい表情になった。ただうなずいて陽子の手首をつかむ。
「失礼を。──ここは危険です。こちらへ」
「……危険、って」
「説明をする余裕はありません」
 ぴしゃりといわれて陽子は思わず身をすくめる。
「すぐに敵が来ます」
「……敵?」
 なんとはなしに不安を感じて問い返したときだった。もう一度近くで声がした。
「タイホ、来ました」
 見回したけれど、やはり声の主の姿は見えない。教師たちが何かを言いかけるのと同時だった。
 ──裏庭側の窓ガラスが割れたのは。

 割れたのは陽子の間近の一枚だった。とっさに目を閉じた陽子の耳に、ガラスの砕ける音に混じって悲鳴じみた叫びが聞こえた。
「なんだ!?」
 担任の声に閉じた目を開くと、教師はガラスが割れた窓に駆け寄るようにして外を見回していた。広い川に面した窓からは冷たい風が吹き込んで、冷気といっしょに、なにか|生臭《なまぐさ》い臭気を外から運んできていた。床には破片が散乱している。比較的窓のそばにいたにもかかわらず陽子が破片をかぶらずにすんだのは、奇妙な男が|盾《たて》になってくれたからだった。
「なに……?」
 状況がつかめずに問う陽子に、男がいくぶん冷ややかな声を出した。
「だから危険だと申しあげましたのに」
 言って、あらためて陽子の腕をつかむ。
「こちらへ」
 強い不安を感じた。つかまれた腕をふりほどこうとしたが、男はまったく離すふうがない。それどころかかえって強く引っ張る。たたらを踏んでよろめいた陽子の肩に手をかけた。
 引っ張る男を押しとどめたのは、担任だった。
「これは、おまえのしわざか!?」
 男は険をふくんだ目で担任を見る。あげた声は冷ややかで|容赦《ようしゃ》がなかった。
「あなたには関係がない。さがっていなさい」
「えらそうに、なんだ、おまえは。うちの生徒になんの用だ? 外に仲間でもいるのか!?」
 男に向かって怒鳴ってから陽子をにらむ。
「中嶋、どういうことなんだ!?」
「……わかりません」
 聞きたいのは陽子のほうだった。首をふる陽子を男は引っぱる。
「とにかく、ここは」
「いやです」
 こういう誤解は恐ろしい。こんな男と仲間だなんて思われたら。身をよじって男の腕をふりほどくと同時に、再びどこか上のほうから声がした。
「タイホ」
 緊張した声だった。教師たちが声の|主《ぬし》を探すように周囲を見まわす。男はあきらかに顔をしかめた。
「まったく、|頑迷《がんめい》な」
 吐き捨てるように言ってから、男はいきなり膝をついた。反応する間も与えず陽子の足をつかまえる。
「ゴゼンヲハナレズチュウセイヲチカウトセイヤクスル」
 早口に言うやいなや、陽子をにらみすえた。
「許す、と」
「なんなの!?」
「命が惜しくないのですか。──許す、とおっしゃい」
 語気荒く言われ、けおされて陽子は思わずうなずいていた。
「許す……」
 ついで男がとった行動は、陽子を|呆然《ぼうぜん》とさせるのにじゅうぶんだった。
 一拍おいて、周囲からあきれたような声があがる。
「おまえら!」
「なにを考えてるんだ!」
 陽子はひたすらあぜんとしていた。この見ず知らずの男は頭をたれて、つかまえた陽子の足の甲に額をあてたのだ。
「なにを──」
 するの、と言いかけて陽子は言葉をとぎらせた。
 たちくらみがした。なにかが自分のなかを駆け抜けていって、それが一瞬、目の前をまっくらにする。
「中嶋! どういうことだ!?」
 顔をまっかにした担任が怒声をあげるのと同時だった。
 どん、と低い地響きのような音がして、裏庭側に残ったガラスというガラスが白く|濁《にご》った。

   5

 その一瞬は、まるで大量の水が吹きこんでくるように見えた。
 |砕《くだ》け散ったガラスの破片が鋭利な光を|弾《はじ》いて水平に殺到してくる。
 とっさに目を閉じ、腕をあげて顔をそむけた。その腕に、顔に体に小さな痛みが吹きつけてくる。すさまじい音がしたはずだが、陽子の耳には届かなかった。
 小石のぶつかるような感触が絶えたことを確認して目を開けると、教室はガラスの破片で光を|撒《ま》いたように見えた。集まってきた教師たちがその場にうずくまっている。陽子の足もとには担任が身を伏せていた。
 大丈夫ですか、と問いかけて、彼の体には無数の破片が刺さっているのを発見する。教師たちがあげているうめき声がようやく陽子の耳に入った。
 陽子はとっさに自分の体を見おろす。担任の脇に立っていたにもかかわらず、陽子の体には傷ひとつなかった。
 ただ驚くしかない陽子の足を担任がつかんだ。
「おまえ……なにをしんたんだ」
「あたしは、なにも」
 その血だらけの手を引きはがしたのは男だった。
「行きましょう」
 この男も無傷だった。
 陽子は首を横にふる。ついてけいばほんとうに仲間だと思われてしまう。それでも手を引かれるままつい足を動かしてしまったのは、その場に残るのが恐ろしかったからだった。敵が来る、という言葉には現実感がない。それよりも|怪我人《けがにん》だらけで血の臭いのたちこめた、この場所にとどまっていることが怖かった。

 職員室を飛び出したところで駆けつけてきた教師に会った。
「どうした!?」
 初老の教師は怒鳴り、陽子の脇にいる男に目をとめて|眉《まゆ》をひそめる。陽子がなにを言うよりも早く、男が手を上げて職員室を示した。
「手当てを。怪我人がいる」
 それだけを言って陽子の手を引く。背後で教師がなにかを叫んだが、なんと言ったのかはわからなかった。
「どこへ、行くんですか」
 陽子が声をあげたのは、男が階段を下りようとせず上がろうとしたときだった。この場をとにかく逃げ出して家に帰りたかった。そう意図して階下を指さす陽子の腕を、男は上に向かって引く。
「そっちは屋上……」
「いいから、こちらへ。そちらからは人が来る」
「でも」
「我々が行くとかえって迷惑をかける」
「迷惑、って」
「無関係な物をまきこむことをお望みか」
 男は屋上へ通じるドアを開く。強く陽子の手を引いた。
 無関係な者をまきこむということは、陽子は無関係ではないということなのだろうか。男が言った「敵」とは、いったいなんだろう。聞きたかったが、なんとなく|気後《きおく》れがした。
 手を引かれるまま、なかばよろめくようにして屋上へ出たとき、背後から奇声がとどろいた。
 |錆《さ》びた金具がたてたような声に、陽子は背後に視線を走らせる。今出てきたばかりのドアの上に影が見えた。
 茶色の翼。毒々しい色合いの曲がった|嘴《くちばし》が大きく開かれて、興奮した猫のような奇声をあげている。
 両翼の先までが五メートルはあろうかという巨鳥だった。
 ──あれは。
からめとられたように身動きができなかった。
 ──あれは、夢のなかの。
 建物の屋根から、奇声といっしょに濃厚な殺意が降ってくる。夜をむかえはじめた|曇天《どんてん》の空は暗い。大きな|襞《ひだ》をみせる雲に、どこからかもれた夕陽がかすかに赤い光を投げていた。
 |鷲《わし》に似たその鳥には|角《つの》があった。首をふり、大きく一度|羽《は》ばたきすると、いやな臭気のする風が圧力をもって吹きつけてきた。夢と同じように、陽子はそれをただ見ていた。
 巨鳥の身体が舞いあがる。ごくかるく浮きあがると、宙でもう一度羽ばたきし、そうして急に翼の角度を変えた。
 急降下してくる態勢だ、と陽子は|呆然《ぼうぜん》と思った。太い脚が陽子をまっすぐに示している。茶色の羽毛におおわれた脚には、圧倒されるほど太く鋭い|鉤爪《かぎづめ》が見えた。
 陽子が立ち直るひまもなく、鳥の身体が落下してくる。悲鳴をあげることさえできなかった。
 陽子の目は見開かれたままだったが、なにも見ていなかった。それで肩に鈍い衝撃が当たったときにも、それが自分を引き裂く鉤爪のせいなのだとすんなり納得した。
「ヒョウキ!」
 どこからか声が響いて、目の前に暗い赤い色が流れた。
 ──血だ……。
 そう思ったが、不思議にさほどの痛みは感じなかった。
 陽子はようやく目を閉じる。想像していたよりも楽そうだ、と思った。死ぬことはもっと恐ろしいことだと思っていたのだけれど。
「しっかりなさい!」
 強い声の主に肩をゆすられて、陽子は我に返った。
 男が顔をのぞきこんでいた。背中にコンクリートの感触がして、左の肩にフェンスの堅い感触が食いこんでいる。
「自失している場合ではない!」
 陽子は跳ね起きた。立っていたはずの場所から、かなり遠い場所に陽子は転がっている。
 奇声が響いて、ドアの前で巨鳥が翼をふっているのが見えた。
 羽ばたくたびに圧力のある風が吹く。鉤爪は屋上のコンクリートをえぐっていた。爪が深く床に食いこんで鳥は身動きがとれないようだった。
 いらだったように大きく首をふる。その首に赤い獣が喰らいついているのが見えた。暗い赤の毛並みにおおわれた|豹《ひょう》のような獣だった。
「……なに」
 陽子は悲鳴をあげた。
「なんなの、あれは!」
「だから危険だと申しあげたのに」
 男は陽子を引き起こす。陽子は一瞬だけ男と鳥を見くらべた。
 鳥と獣はもつれ合うようにして|競《せ》り合いを続けている。
「カイコ」
 男の声に呼ばれたように、コンクリートの床から一人の女が現れた。まるで水面に浮かびあがってくるように羽毛におおわれた女の上半身が現れる。
 女は鳥の翼のようなその腕に一本の剣を抱いていた。宝剣、といっていいような優美な|鞘《さや》の剣だった。|柄《つか》は金、鞘にも金の装飾がある。宝石らしい石を散らし、|玉飾《たまかざ》りをつけたその剣はとうてい実用に耐えるようには見えない。
 男は女の腕から剣を取りあげる。手にとったそれをまっすぐ陽子に突きつけた。
「……なに」
「あなたのものです。これをお使いなさい」
 陽子はとっさに男と剣を見くらべた。
「……あたしが? あなたじゃなくて?」
 男は不快げな顔をして剣を陽子の手に押しこんだ。
「私には剣をふるう趣味はない」
「こういう場合、あなたがそれで助けてくれるんじゃないの!?」
「あいにく剣技を知らない」
「そんな!」
 手のなかの剣は見かけよりも重い。とうていふりまわせるとは思えなかった。
「あたしだって知らない」
「おとなしく殺されてさしあげるおつもりか」
「いや」
「ではそれをお使いなさい」
 陽子の頭のなかは混乱の極致にあった。殺されたくない、という思念だけが強い。
 だからといって剣をふりかざして戦う勇気はない。そんな力や技量があるはずがない。剣を使えという声と、使えるはずがないという声と、両極の声が陽子に第三の行動をとらせた。
 つまり、剣を投げつけたのだ。
「なにを──おろかな!」
 男の声には|驚愕《きょうがく》と怒りとが混じっている。
 鳥をめがけて陽子が投げた剣は、目標に届きもしなかった。打ちふるう翼の先をわずかにかすめて巨鳥の足元に落ちる。
「まったく。──ヒョウキ!」
 舌打ちするのが聞こえそうな声だった。
 男の声に鳥の翼に爪をたてていた暗赤色の獣が離れる。離れざま身をかがめて落ちた剣をくわえると、矢のように陽子のほうへと駆け戻ってくる。
 剣をうけとりながら男は獣に問う。
「持ちこたえられるか」
「なんとか」
 驚いたことに返答したのは、まぎれもなくヒョウキと呼ばれた暗赤色の獣だった。
 頼む、と短く言って男はだまってひかえていた鳥のような女に声をかける。
「カイコ」
 女がうなずいたとき、細かな石が飛んできた。
 巨鳥が爪を抜いてコンクリートの|飛沫《ひまつ》があがったところだった。
 舞いあがろうとする巨鳥に赤い獣が跳びつく。いつの間にか全身を現して宙に舞い上がっていた女がそれに加わった。女の脚は人そのもの、ただし羽毛におおわれて、さらに長い尾がある。
「ハンキョ。ジュウサク」
 男に呼ばれて女が現れたのと同じように、二頭の大きな獣が現れた。一方は大型犬に、一方は|狒狒《ひひ》に似ている。
「ハンキョ、ここは任せる。ジュウサク、この方を」
「|御意《ぎょい》」
 二頭の獣は頭を下げた。
 うなずき返し、男は背を向ける。ためらいのない動きでフェンスに歩み寄ると、するりと姿をかき消した。
「……そんな! 待って!」
 叫んだときだった。狒狒に似た獣が腕を伸ばした。
 陽子の身体に手をかけ、有無を言わさず抱え込む。陽子はとっさに悲鳴をあげた。それを無視して狒狒は陽子を小脇に抱える。その場を蹴ってフェンスの外に跳躍した。
只买不看

最后的银色子弹

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发表于 2006-3-21 16:01:12 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

先赞一个.感谢版主提供了这么好的阅读材料~~
在下已经复制下来准备细看了.
希望不日能够看到新的追加版哈.
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发表于 2006-3-25 23:22:15 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海



 狒狒は屋根から屋上へ、屋上から電柱へ、驚異的な跳躍を繰り返して風のように駆けた。
 陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。
 狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。
「ごぶじか」
 聞かれて陽子はうなずく。|眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。
 足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。
「お泣きになっている場合ではない」
 陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。
 陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。
「……怖かった」
 つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。
「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている|猶予《ゆうよ》はないのですよ」
「追って……くる?」
 驚いて見あげると、男はうなずく。
「あなたがお|斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」
「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」
「コチョウ」
「コチョウって?」
 男は|軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。
「あれのことです」
 陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。
「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」
 短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。
 こんな|得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に|鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。
「──もうよろしいか?」
 とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。
「よろしい、って」
「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」
「出発ってどこへ?」
「あちらへ」
 あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。
 どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。
「……ちょっと待ってください」
「そんなひまはない」
 男はいらだった口調で言う。
「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」
「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」
「まっすぐに行けば、片道に一日」
「そんな、困ります」
「なにを」
 とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。
 片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を|空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。
「……困ります」
 なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。
 泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。
 ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。
「タイホ」
 男は空を見あげる。
「コチョウか」
「はい」
 ぞっ、と陽子の背筋を|悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。
「……助けてください」
 男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。
「命がおしければ、これを」
「でもあたし、こんなの使えません」
「これはあなたにしか使えない」
「あたしには、むりです!」
「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」
 呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。
 岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。
 するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。
「……なに!?」
 小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。
「いや!」
 逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。
 逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の|衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。
「いや! とって!」
 つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。
「やめて! いや!!」
「聞き分けのない。おちつかれよ」
「いや! いやだってば!!」
 冷えた|糊《のり》のようなものが背中から腕を|這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。
 膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。
「なに? なんなの!?」
「ジョウユウが|憑依《ひょうい》しただけです」
「憑依って」
 陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。
「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」
 そう冷淡に言って男は剣をさしだす。
「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」
「あれ……だけ?」
 だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。
「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」
 男は答えずに空を見あげる。
「来た」

   7

 陽子がふりかえるより先に、背後から奇声が聞こえた。
 声のほうを見あげる陽子の手のなかに、剣が押しこまれる。それにはかまわず陽子はふりかえる。背後の上空に翼を広げた巨鳥の姿が降下してくるのが見えた。
 悲鳴をあげた。逃げられない、ととっさに思った。
 逃げるよりも落下してくる鳥のほうが速い。剣なんて使えない。あんな、ばけものに|対峙《たいじ》する勇気なんてない。身を守る方法がない。
 太い脚の|鉤爪《かぎづめ》が視野いっぱいに広がった。目を閉じたかったが、できなかった。
 目の前を白い光が走って、堅い激しい音がした。岩と岩とを打ちつけたような音をたてて、|斧《おの》のように重量感のある鉤爪が顔のすぐ前で止まった。
 とめたのは剣、剣を|鞘《さや》からなかばまで引き抜いて目の前にかかげたのは、ほかでもない自分の両腕だった。
 なに? と自問するひまもなかった。
 陽子の腕が残りの刀身を引き抜いて、抜きざまコチョウの脚を払う。
 赤い血が散って、生暖かな温度をともなって陽子の顔に噴きつけた。
 陽子は|呆然《ぼうぜん》としているしかなかった。
 断じて剣を使っているのは陽子ではない。手足が勝手に動いて、|狼狽《ろうばい》したように浮上するコチョウの片脚を|斬《き》って落とす。
 また鮮血が|飛沫《しぶ》いて顔を汚した。ぬるいものが|顎《あご》から首をつたって、衿のなかに入ってくる。その感触に陽子は震えた。
 陽子の足は|血飛沫《ちしぶき》をかわすようにその場をさがった。
 宙へ逃げ出した巨鳥は、すぐさま態勢を立て直して突っ込んできた。
 その翼に斬りつけながら、陽子は自分の体が動くたび、動きにしたがって冷えたぞろぞろとする感触が身体をつたうのを感じる。
 ──あれだ。あの、ジョウユウとかいうばけもの。
 翼を傷つけられた巨鳥が、奇声をあげながら地に突っ込む。
 それを視野にとらえながら、陽子は|悟《さと》る。
 あのジョウユウとかいうばけものが自分の手足を動かしているのだ。
 |身悶《みもだ》えするように羽ばたいた巨鳥は、地を巨大な両翼で叩くようにして陽子に向かってきた。
 陽子の身体はよどみなく動いて、身をかわしざま、その胴を深く斬って捨てる。
 生暖かい|血糊《ちのり》を頭からかぶって、手には肉と骨を断つおぞけのするような感触が残った。
「いや」
 口は陽子の意思によってつぶやいたが、身体は動きをやめなかった。
 血糊が身体をつたうのもかまわず、地面に落ちてあがくコチョウの翼に深く剣を突き立てる。刺し貫いた剣をそのまま引いて大きな翼を斬り裂いた。
 そのまま陽子の身体はきびすを返して、奇声をあげ血泡を噴いてのたうつ首に向かった。
「いや。……やめて」
 巨鳥は転がるようにして傷ついた翼を大きく打ちふるっていたが、翼はもはやその体重を浮上させることができなかった。
 陽子の腕は、音をたてて宙を|扇《あお》ぐ翼を避けて胴を刺し貫いた。とっさに目をそむけたが、ぶよぶよとした抵抗を斬り裂く感触が手に残る。
 その剣を抜きざま振り上げ、|躊躇《ちゅうちょ》なくその首にふりおろした。首の骨に当たって剣が止まる。
 あらためて|粘《ねば》る血肉から引き抜いてふりあげ、赤く染まった首を今度は完全に|斬《き》り落とし、そのまだ|痙攣《けいれん》している翼で剣をぬぐったところで手足の勝手な動きが止まった。
 陽子は悲鳴をあげて、やっと剣を投げ捨てた。

 突堤の端から身を乗り出して陽子は吐いた。
 泣きじゃくりながら海中投げこまれたテトラポッドをつたって水のなかに飛びこむ。今は二月もなかばで、海の水は身を切るほど冷たいことは、まったく念頭に浮かばなかった。とにかく、頭からかぶった血糊を洗い落としてしまいたかった。
 無我夢中で水をかぶって、それでようやく落ちつくと、水のなかから|這《は》いのぼることさえできないほど震えた。
 のろのろと這いのぼって突堤に戻り、そこであらためて声をあげて泣いた。恐怖と|嫌悪《けんお》で泣かずにはおれなかった。
 声が|嗄《か》れるほど泣いて、泣く気力さえつきたころにようやくケイキが声をかけてきた。
「もう、よろしいか」
「……なに……」
 ぼんやりと顔をあげると、ケイキの表情にはなんの色もない。
「これが追っ手のすべてではありません。じきに次の追っ手が来る」
「……それで?」
 神経のどこかが|麻痺《まひ》したようだった。追っ手という言葉に恐怖を感じず、男をまっこうからにらむことにも|気後《きおく》れを感じなかった。
「追っ手は手ごわい。お守り申しあげるには、私ときていただくほかはありません」
 陽子はそっけなく返した。
「いや」
「分別のないことをおっしゃる」
「もうたくさん。あたし、家に帰る」
「家に帰ったからといって、決して安全ではない」
「もういいの、どうだって。寒いから家に帰る。……ばけものを取ってよ」
 男は陽子を見すえた。その目を陽子も淡々と見返す。
「あたしの身体に張りついてるんでしょ。ジョウユウとかいうばけものを取って」
「それは当面、あなたに必要なものだ」
「必要ない。あたし、家に帰るから」
「どこまでおろかな方か!」
 怒鳴られて、陽子は目を見開く。
「死んでいただいては困る。否とおっしゃるなら、むりにでもおいでいただきます」
「勝手なことばかり言わないで!」
 陽子は叫んだ。他人を怒鳴りつけたのは記憶にある限り、生まれてはじめてのことだったが、いったん叫んでしまうと、身内には奇妙な|高揚感《こうようかん》があった。
「あたしがなにをしたっていうのよ! あたしは、家に帰るの。こんなことに巻き込まれるのはもういや。どこへも行かない。家に帰る」
 突きつけられた剣を、陽子は乱暴に手で払いのけた。
「あたしは、家に帰りたいの! あなたに指図なんかさせない!」
「危険だと申しあげているのがおわかりにならないか!」
 陽子は薄く笑ってみせる。
「危険でもいい。あなたには関係ないでしょ」
「関係なくはない」
 男は低く吐き捨てて、陽子の背後に目線でうなずく。まえぶれもなく背後から二本の白い腕が伸びて、陽子の腕をつかんだ。
「なにをするのよ!?」
 ふりかえると、最初に剣を持って現れた鳥のような女だった。女は陽子の腕をつかんで無理やり剣を抱かせる。そのまま|羽交《はがい》いじめにするようにして抱きかかえた。
「放して!」
「あなたは私の|主《あるじ》です」
 言われて陽子はケイキを見あげる。
「主?」
「主命とあれば、どのようなことでもお聞きするが、あなたの命がかかっている。今はお許しいただきます。まずはお身の安全を|図《はか》り、事情をお聞きいただいて、その上でお帰りになりたいとおっしゃるのなら必ずお送り申しあげます」
「あたしがいつあなたの主人になったの? 勝手にやってきて、なんの説明もなしに勝手なことばかり。ふざけないでよ!」
「説明申しあげる猶予はありません」
 言ってケイキは、底冷えのする視線を陽子に向ける。
「私としてもこんな主人は願い下げだが、こればかりは私の意のままにならない。主人を見捨てることは許されない。ましてや無関係な人々をまきこむことは絶対に避けねば。否というなら力ずくでもおいでいただく。──カイコ。そのままお連れせよ」
「いや! 放して!」
 ケイキは陽子をふりかえらない。
「ハンキョ」
 呼ばれて赤い毛並みの獣が物陰から現れる。
「離れて飛べ。血の臭いが移る」
 次いでヒョウキ、と呼ばれて巨大な|豹《ひょう》に似た獣が姿を現した。女は陽子を羽交いじめにしたままその背を|跨《また》ぎ越す。
 ふうわりと、同じようにハンキョに|跨《またが》った男に陽子は訴えた。
「冗談じゃないわよ! 家に帰して! せめてあの、ばけものを取って!!」
「別に邪魔になるわけではないでしょう。ジョウユウが|憑《つ》いていたからといって、なにかを感じるわけではないはずだ」
「それでも気味が悪いの! 取りなさいよ!」
 ジョウユウ、と陽子のほうをふり向いて男は命じる。
「決して姿を現さず、ないものとしてふるまえ」
 これに対して返答はなかった。
 ケイキがうなずくと、陽子を乗せた獣が立ちあがった。とっさに自分を抱えた女の腕にしがみつくと同時に、獣は音もなく跳躍する。
「……いやだってば!」
 陽子の叫びを無視して獣は抵抗なく宙へ向かって駆けあがった。
 まるでゆるやかに宙を泳ぐようにして高度を増す。地面が眼下を遠ざかっていかなければ、動いていないのかと錯覚するほど獣の動きは穏やかだった。
 獣は宙を駆ける。夢のように地上は遠ざかって、日暮れた街の姿をあらわにした。

   8

 天には|凍《こご》えた満天の星。地には都市の輪郭を作る一面の星。
 獣は海上に踊り出た。
 宙を泳ぐように|翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。
 なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。
 暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。
 獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。
 そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。
 陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。
「あの……追ってきてる?」
 半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。
「はい。追っ手の妖魔が多数」
 女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は|安堵《あんど》する。
「あなたたちは……何者?」
「我々はタイホの|僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」
「……うん」
 陽子はしぶしぶ前を向く。
 視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。
「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」
 その声に陽子は|怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。
「……敵が来そう?」
「居ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」
「……じゃあ?」
「万が一にも剣や|鞘《さや》をなくされませんよう」
「剣と、鞘?」
「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております|珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」
 陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り|紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。
「これ?」
「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」
 言われるままに手のなかに握りこんでみると、|掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。
「……暖かい」
「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の|宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」
 うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。
 まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。
 さらに下降すれば、海面は|沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。
 獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。
「あたし、泳げない!」
 白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。
「大事ございません」
「でも!」
 それ以上を言うひまはなかった。海面が前に|塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。

 光の中に飛び込んだ瞬間、叩きつけられる衝撃を覚悟したが、そんなものはまったくなかった。
 逆巻いた波の|飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた|瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。
 ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。
 頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。
「なに……これ」
 もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。
 頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。
 |煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。
 突然に耳に音が戻る。鈍い光を|弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは|滑《すべ》り出ていたのだ。
 海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。
 月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。
 波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。
 獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。
「ヒョウキ」
 |堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。
 光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。
 天も地もない闇のなかに薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。
 その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。
 陽子は呆然とした。
「あれは……」
 あれは。この風景は──。
 陽子は悲鳴をあげた。
「やだ! 逃げてーっ」
 女の手があやすように陽子をゆすった。
「そうしております。どうぞご安じくださいまし」
「いや!」
 女は陽子の身体を伏せさせる。
「しっかりヒョウキにつかまって」
「あなたは?」
「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」
 陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。
 そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の|縞《しま》がある背が、あっという|間《ま》にのまれていった。

 陽子の周囲にはすでに闇よりほかになにひとつ見えない。風が巻いて、陽子を揺さぶり始めた。
「ヒ……ヒョウキ、さん」
 陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。
「なにか」
「逃げられそう?」
「さて。どうですか」
 ごく緊張感のない声が答えてから、
「上! ご注意を!」
「え?」
 ふり|仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。
「ゴユウが」
 しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。
「なに? どうしたの!?」
 ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。
「剣を。──伏兵が。はさまれました」
「そんな!」
 叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。
「いや! 逃げてーっ!!」
 剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。
 獣に|跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが|這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。
 腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を|鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。
「……いや。やめて!」
 右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを|毟《むし》るようにしてつかむ。
「お願い、やめて!!」
 近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。
 ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が|斬《き》り捨てた。
「いや!」
 陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。
 生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に|殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。
 剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。
「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」
「いやっ!!」
 がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。
 前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。
 ヒョウキが強く左に跳ぶ。
 突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。
 なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。
 悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。
 驚いて見開いた目に、突進してくる|猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を|斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の|咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。
 それを最後に五感までもが闇のなかに墜落していった。
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发表于 2006-3-25 23:26:55 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海



 狒狒は屋根から屋上へ、屋上から電柱へ、驚異的な跳躍を繰り返して風のように駆けた。
 陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。
 狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。
「ごぶじか」
 聞かれて陽子はうなずく。|眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。
 足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。
「お泣きになっている場合ではない」
 陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。
 陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。
「……怖かった」
 つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。
「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている|猶予《ゆうよ》はないのですよ」
「追って……くる?」
 驚いて見あげると、男はうなずく。
「あなたがお|斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」
「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」
「コチョウ」
「コチョウって?」
 男は|軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。
「あれのことです」
 陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。
「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」
 短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。
 こんな|得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に|鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。
「──もうよろしいか?」
 とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。
「よろしい、って」
「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」
「出発ってどこへ?」
「あちらへ」
 あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。
 どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。
「……ちょっと待ってください」
「そんなひまはない」
 男はいらだった口調で言う。
「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」
「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」
「まっすぐに行けば、片道に一日」
「そんな、困ります」
「なにを」
 とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。
 片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を|空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。
「……困ります」
 なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。
 泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。
 ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。
「タイホ」
 男は空を見あげる。
「コチョウか」
「はい」
 ぞっ、と陽子の背筋を|悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。
「……助けてください」
 男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。
「命がおしければ、これを」
「でもあたし、こんなの使えません」
「これはあなたにしか使えない」
「あたしには、むりです!」
「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」
 呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。
 岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。
 するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。
「……なに!?」
 小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。
「いや!」
 逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。
 逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の|衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。
「いや! とって!」
 つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。
「やめて! いや!!」
「聞き分けのない。おちつかれよ」
「いや! いやだってば!!」
 冷えた|糊《のり》のようなものが背中から腕を|這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。
 膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。
「なに? なんなの!?」
「ジョウユウが|憑依《ひょうい》しただけです」
「憑依って」
 陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。
「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」
 そう冷淡に言って男は剣をさしだす。
「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」
「あれ……だけ?」
 だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。
「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」
 男は答えずに空を見あげる。
「来た」

   7

 陽子がふりかえるより先に、背後から奇声が聞こえた。
 声のほうを見あげる陽子の手のなかに、剣が押しこまれる。それにはかまわず陽子はふりかえる。背後の上空に翼を広げた巨鳥の姿が降下してくるのが見えた。
 悲鳴をあげた。逃げられない、ととっさに思った。
 逃げるよりも落下してくる鳥のほうが速い。剣なんて使えない。あんな、ばけものに|対峙《たいじ》する勇気なんてない。身を守る方法がない。
 太い脚の|鉤爪《かぎづめ》が視野いっぱいに広がった。目を閉じたかったが、できなかった。
 目の前を白い光が走って、堅い激しい音がした。岩と岩とを打ちつけたような音をたてて、|斧《おの》のように重量感のある鉤爪が顔のすぐ前で止まった。
 とめたのは剣、剣を|鞘《さや》からなかばまで引き抜いて目の前にかかげたのは、ほかでもない自分の両腕だった。
 なに? と自問するひまもなかった。
 陽子の腕が残りの刀身を引き抜いて、抜きざまコチョウの脚を払う。
 赤い血が散って、生暖かな温度をともなって陽子の顔に噴きつけた。
 陽子は|呆然《ぼうぜん》としているしかなかった。
 断じて剣を使っているのは陽子ではない。手足が勝手に動いて、|狼狽《ろうばい》したように浮上するコチョウの片脚を|斬《き》って落とす。
 また鮮血が|飛沫《しぶ》いて顔を汚した。ぬるいものが|顎《あご》から首をつたって、衿のなかに入ってくる。その感触に陽子は震えた。
 陽子の足は|血飛沫《ちしぶき》をかわすようにその場をさがった。
 宙へ逃げ出した巨鳥は、すぐさま態勢を立て直して突っ込んできた。
 その翼に斬りつけながら、陽子は自分の体が動くたび、動きにしたがって冷えたぞろぞろとする感触が身体をつたうのを感じる。
 ──あれだ。あの、ジョウユウとかいうばけもの。
 翼を傷つけられた巨鳥が、奇声をあげながら地に突っ込む。
 それを視野にとらえながら、陽子は|悟《さと》る。
 あのジョウユウとかいうばけものが自分の手足を動かしているのだ。
 |身悶《みもだ》えするように羽ばたいた巨鳥は、地を巨大な両翼で叩くようにして陽子に向かってきた。
 陽子の身体はよどみなく動いて、身をかわしざま、その胴を深く斬って捨てる。
 生暖かい|血糊《ちのり》を頭からかぶって、手には肉と骨を断つおぞけのするような感触が残った。
「いや」
 口は陽子の意思によってつぶやいたが、身体は動きをやめなかった。
 血糊が身体をつたうのもかまわず、地面に落ちてあがくコチョウの翼に深く剣を突き立てる。刺し貫いた剣をそのまま引いて大きな翼を斬り裂いた。
 そのまま陽子の身体はきびすを返して、奇声をあげ血泡を噴いてのたうつ首に向かった。
「いや。……やめて」
 巨鳥は転がるようにして傷ついた翼を大きく打ちふるっていたが、翼はもはやその体重を浮上させることができなかった。
 陽子の腕は、音をたてて宙を|扇《あお》ぐ翼を避けて胴を刺し貫いた。とっさに目をそむけたが、ぶよぶよとした抵抗を斬り裂く感触が手に残る。
 その剣を抜きざま振り上げ、|躊躇《ちゅうちょ》なくその首にふりおろした。首の骨に当たって剣が止まる。
 あらためて|粘《ねば》る血肉から引き抜いてふりあげ、赤く染まった首を今度は完全に|斬《き》り落とし、そのまだ|痙攣《けいれん》している翼で剣をぬぐったところで手足の勝手な動きが止まった。
 陽子は悲鳴をあげて、やっと剣を投げ捨てた。

 突堤の端から身を乗り出して陽子は吐いた。
 泣きじゃくりながら海中投げこまれたテトラポッドをつたって水のなかに飛びこむ。今は二月もなかばで、海の水は身を切るほど冷たいことは、まったく念頭に浮かばなかった。とにかく、頭からかぶった血糊を洗い落としてしまいたかった。
 無我夢中で水をかぶって、それでようやく落ちつくと、水のなかから|這《は》いのぼることさえできないほど震えた。
 のろのろと這いのぼって突堤に戻り、そこであらためて声をあげて泣いた。恐怖と|嫌悪《けんお》で泣かずにはおれなかった。
 声が|嗄《か》れるほど泣いて、泣く気力さえつきたころにようやくケイキが声をかけてきた。
「もう、よろしいか」
「……なに……」
 ぼんやりと顔をあげると、ケイキの表情にはなんの色もない。
「これが追っ手のすべてではありません。じきに次の追っ手が来る」
「……それで?」
 神経のどこかが|麻痺《まひ》したようだった。追っ手という言葉に恐怖を感じず、男をまっこうからにらむことにも|気後《きおく》れを感じなかった。
「追っ手は手ごわい。お守り申しあげるには、私ときていただくほかはありません」
 陽子はそっけなく返した。
「いや」
「分別のないことをおっしゃる」
「もうたくさん。あたし、家に帰る」
「家に帰ったからといって、決して安全ではない」
「もういいの、どうだって。寒いから家に帰る。……ばけものを取ってよ」
 男は陽子を見すえた。その目を陽子も淡々と見返す。
「あたしの身体に張りついてるんでしょ。ジョウユウとかいうばけものを取って」
「それは当面、あなたに必要なものだ」
「必要ない。あたし、家に帰るから」
「どこまでおろかな方か!」
 怒鳴られて、陽子は目を見開く。
「死んでいただいては困る。否とおっしゃるなら、むりにでもおいでいただきます」
「勝手なことばかり言わないで!」
 陽子は叫んだ。他人を怒鳴りつけたのは記憶にある限り、生まれてはじめてのことだったが、いったん叫んでしまうと、身内には奇妙な|高揚感《こうようかん》があった。
「あたしがなにをしたっていうのよ! あたしは、家に帰るの。こんなことに巻き込まれるのはもういや。どこへも行かない。家に帰る」
 突きつけられた剣を、陽子は乱暴に手で払いのけた。
「あたしは、家に帰りたいの! あなたに指図なんかさせない!」
「危険だと申しあげているのがおわかりにならないか!」
 陽子は薄く笑ってみせる。
「危険でもいい。あなたには関係ないでしょ」
「関係なくはない」
 男は低く吐き捨てて、陽子の背後に目線でうなずく。まえぶれもなく背後から二本の白い腕が伸びて、陽子の腕をつかんだ。
「なにをするのよ!?」
 ふりかえると、最初に剣を持って現れた鳥のような女だった。女は陽子の腕をつかんで無理やり剣を抱かせる。そのまま|羽交《はがい》いじめにするようにして抱きかかえた。
「放して!」
「あなたは私の|主《あるじ》です」
 言われて陽子はケイキを見あげる。
「主?」
「主命とあれば、どのようなことでもお聞きするが、あなたの命がかかっている。今はお許しいただきます。まずはお身の安全を|図《はか》り、事情をお聞きいただいて、その上でお帰りになりたいとおっしゃるのなら必ずお送り申しあげます」
「あたしがいつあなたの主人になったの? 勝手にやってきて、なんの説明もなしに勝手なことばかり。ふざけないでよ!」
「説明申しあげる猶予はありません」
 言ってケイキは、底冷えのする視線を陽子に向ける。
「私としてもこんな主人は願い下げだが、こればかりは私の意のままにならない。主人を見捨てることは許されない。ましてや無関係な人々をまきこむことは絶対に避けねば。否というなら力ずくでもおいでいただく。──カイコ。そのままお連れせよ」
「いや! 放して!」
 ケイキは陽子をふりかえらない。
「ハンキョ」
 呼ばれて赤い毛並みの獣が物陰から現れる。
「離れて飛べ。血の臭いが移る」
 次いでヒョウキ、と呼ばれて巨大な|豹《ひょう》に似た獣が姿を現した。女は陽子を羽交いじめにしたままその背を|跨《また》ぎ越す。
 ふうわりと、同じようにハンキョに|跨《またが》った男に陽子は訴えた。
「冗談じゃないわよ! 家に帰して! せめてあの、ばけものを取って!!」
「別に邪魔になるわけではないでしょう。ジョウユウが|憑《つ》いていたからといって、なにかを感じるわけではないはずだ」
「それでも気味が悪いの! 取りなさいよ!」
 ジョウユウ、と陽子のほうをふり向いて男は命じる。
「決して姿を現さず、ないものとしてふるまえ」
 これに対して返答はなかった。
 ケイキがうなずくと、陽子を乗せた獣が立ちあがった。とっさに自分を抱えた女の腕にしがみつくと同時に、獣は音もなく跳躍する。
「……いやだってば!」
 陽子の叫びを無視して獣は抵抗なく宙へ向かって駆けあがった。
 まるでゆるやかに宙を泳ぐようにして高度を増す。地面が眼下を遠ざかっていかなければ、動いていないのかと錯覚するほど獣の動きは穏やかだった。
 獣は宙を駆ける。夢のように地上は遠ざかって、日暮れた街の姿をあらわにした。

   8

 天には|凍《こご》えた満天の星。地には都市の輪郭を作る一面の星。
 獣は海上に踊り出た。
 宙を泳ぐように|翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。
 なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。
 暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。
 獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。
 そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。
 陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。
「あの……追ってきてる?」
 半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。
「はい。追っ手の妖魔が多数」
 女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は|安堵《あんど》する。
「あなたたちは……何者?」
「我々はタイホの|僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」
「……うん」
 陽子はしぶしぶ前を向く。
 視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。
「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」
 その声に陽子は|怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。
「……敵が来そう?」
「居ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」
「……じゃあ?」
「万が一にも剣や|鞘《さや》をなくされませんよう」
「剣と、鞘?」
「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております|珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」
 陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り|紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。
「これ?」
「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」
 言われるままに手のなかに握りこんでみると、|掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。
「……暖かい」
「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の|宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」
 うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。
 まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。
 さらに下降すれば、海面は|沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。
 獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。
「あたし、泳げない!」
 白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。
「大事ございません」
「でも!」
 それ以上を言うひまはなかった。海面が前に|塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。

 光の中に飛び込んだ瞬間、叩きつけられる衝撃を覚悟したが、そんなものはまったくなかった。
 逆巻いた波の|飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた|瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。
 ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。
 頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。
「なに……これ」
 もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。
 頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。
 |煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。
 突然に耳に音が戻る。鈍い光を|弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは|滑《すべ》り出ていたのだ。
 海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。
 月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。
 波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。
 獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。
「ヒョウキ」
 |堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。
 光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。
 天も地もない闇のなかに薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。
 その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。
 陽子は呆然とした。
「あれは……」
 あれは。この風景は──。
 陽子は悲鳴をあげた。
「やだ! 逃げてーっ」
 女の手があやすように陽子をゆすった。
「そうしております。どうぞご安じくださいまし」
「いや!」
 女は陽子の身体を伏せさせる。
「しっかりヒョウキにつかまって」
「あなたは?」
「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」
 陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。
 そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の|縞《しま》がある背が、あっという|間《ま》にのまれていった。

 陽子の周囲にはすでに闇よりほかになにひとつ見えない。風が巻いて、陽子を揺さぶり始めた。
「ヒ……ヒョウキ、さん」
 陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。
「なにか」
「逃げられそう?」
「さて。どうですか」
 ごく緊張感のない声が答えてから、
「上! ご注意を!」
「え?」
 ふり|仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。
「ゴユウが」
 しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。
「なに? どうしたの!?」
 ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。
「剣を。──伏兵が。はさまれました」
「そんな!」
 叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。
「いや! 逃げてーっ!!」
 剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。
 獣に|跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが|這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。
 腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を|鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。
「……いや。やめて!」
 右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを|毟《むし》るようにしてつかむ。
「お願い、やめて!!」
 近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。
 ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が|斬《き》り捨てた。
「いや!」
 陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。
 生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に|殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。
 剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。
「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」
「いやっ!!」
 がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。
 前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。
 ヒョウキが強く左に跳ぶ。
 突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。
 なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。
 悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。
 驚いて見開いた目に、突進してくる|猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を|斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の|咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。
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二章


   1

 荒れた波が打ち寄せる砂浜だった。
 ふと気がつくと、陽子は波打ち際に倒れていた。
 陽子が倒れた場所から波が砂を濡らしいている場所まではすこしだけ距離があったが、水の打ち寄せる勢いが激しい。しぶきが陽子の顔にかかって、それで目を覚ましたのだと分かった。
 陽子は顔をあげる。ひときわ大きな波が押し寄せてきて、砂の上を|這《は》った水が倒れた陽子の爪先を濡らした。不思議に冷たい気はしなかったので、陽子はそのままそこに横たわっている。爪先を波が洗うにまかせた。
 濃く潮の匂いがする。潮の臭いは、血の臭いに似ている、と陽子はぼんやりそう思った。ひとのむ体の中には海水が流れている。だから、耳を澄ますと身内から|潮騒《しおさい》の音がする。そんな、気がする。
 また大きな波が打ち寄せてきて、陽子の膝のあたりまで水が押し寄せてきた。波にさらわれた砂が膝をくすぐる。濃厚な潮の匂いがした。
 ぼんやりと足元をながめていた陽子は、引いていく水に赤い色が混じっているのに気づいた。ふと目線を沖へ向ける。そこには灰色の海と灰色の空が広がるばかり、赤い色はどこにもない。
 また波が打ち寄せてきた。引いてく水がやはり赤い。色の出どころを探して、陽子は目を見開いた。
「……あ」
 赤い色の出どころは自分の足だった。波が洗う爪先から、すねから、赤い色が溶け出している。
 あわてて両手をついて体を起こした。よくよく見てみると手も足も真っ赤で、制服までが赤黒い色に変色してしまっている。
 陽子は小さく悲鳴をあげた。
 ──血だ。
 全身が、浴びた返り血で真っ赤に染まっている。両手はほとんど黒く見えるほど赤くて、かるく手をにぎってみると恐ろしく粘った。そっと触れると、顔も髪も同じように粘つくものでおおわれている。
 陽子の悲鳴に合わせたように、またひときわ高い波が打ち寄せてきた。
 今度は身を起こした陽子の周りを波が洗っていく。打ち寄せる水は|濁《にご》った灰色で、引いていく水は赤い色を溶かしこんでいた。
 その水をすくって、陽子は両手を洗う。指の間からしたたる水は、血液そのものの色をしていた。
 波が打ち寄せるたびに水をすくって手を洗った。洗っても洗っても、両手白い色をとりもどさなかった。いつの|間《ま》にか水は、座り込んだ陽子の腰のあたりに達している。腰の周りから赤い色がにじみ出て、周囲の水面は赤く染まっていた。しかもその赤は徐々に大きく広がっている。灰色ばかりの風景の中で、赤い色が|鮮《あざ》やかだった。 ふと陽子は、自分の手に変化が起こったのをみつけた。赤い手を目の前にかざす。爪が伸びていた。
 とがった鋭利な爪が、指の第一関節ほども長く伸びている。
「……どうして」
 しみじみと見つめて、さらに変化を|悟《さと》る。手の甲に無数のひび割れができていた。
「なに……?」
 ぱら、とちいさな赤い破片が落ちた。風に流されて沖へ飛んでいく。
 小さな破片がはがれた、その下から現れたのは、ひとつまみの赤い毛だった。ごく短い毛が小さな面積にびっしりと|生《は》えている。
「まさか……」
 かるく手をこする。ぱらぱらと破片が落ちて、さらに赤い毛並みが現れる。身動きするたびに足からも顔からも破片が落ちて、かわりに赤い毛並みが現れてゆく。
 荒い波に現れて、制服が|朽《く》ちたようにちぎれていった。その下から現れたのも、やはり赤い毛並みだった。水がさらにその毛並みを洗う。赤い色を溶かし出して、すでに周囲は見わたすかぎり赤い色に染まっている。
 凶器のような爪。赤い毛並み。──まるで獣に変化していこうとしているように。
「──うそ!」
 叫んだ声はひび割れた。
 ──ばかな。どうして、こんな。
 制服がちぎれ落ちたあとに現れた腕は、奇妙な形にねじれている。それは犬か猫の|前肢《まえあし》のように見えた。
 ──返り血。
 ──きっと、返り血のせいだ。
 ばけものの返り血が、身体を変えていこうとしている。
 ──ばけものに、なる。
 (そんな、ばかな)
 ──いやだ。
「いや──っ!!」
 叫んだ言葉は聞こえなかった。
 陽子の耳は荒れる海の波の音と、一匹の獣の|咆哮《ほうこう》だけを聞いた。

 ──陽子が目を開けると、|青白《あおじろ》い闇のなかにいた。
 息をしたとたん、全身が痛んだ。特に胸の痛みがひどい。
 とっさに両手を顔の前にかざして、陽子はかるく息をついた。そこには爪も、赤い毛並みも見えなかった。
「………………」
 声にならない|安堵《あんど》のため息をつく。なにが自分におこったのか原因を思い出そうとして、はたと記憶がよみがえった。あわてて体を起こそうとしたが、身体が硬直したように|強《こわ》ばって動かない。
 ゆっくりと何度か息をして、それからそろそろと身を起こした。深い息をくりかえすあいだに、痛みはゆるやかに引いていく。半身をおこした陽子の身体からパラパラと松の葉がこぼれ落ちた。
 ──松。
 確かに松葉のようだった。周囲を見わたすと松林、頭上を見あげると折れた枝の断面が白い。そこから墜落してきたのだろうとわかった。
 右手はしっかり今もなお、剣の|柄《つか》をにぎりしめていた。よくも放さなかったものだと思い、ついで自分の身体をあらためて、よくも|怪我《けが》をせずにすんだものだと思う。細かいかすり傷は無数にあったが、怪我と呼べるほどの傷は見当たらなかった。ついでに、なんの変化もない。
 陽子はそろそろと背中を探る。スカートのベルトにはさまれて失いもせずにすんだ|鞘《さや》を引き出すと、それに剣を収めた。
 白い|靄《もや》が薄く流れている。夜明け前の空気が漂っていた。波の音が響いている。
「それであんな夢をみたんだ……」
 気味の悪い返り血の感触と、バケモノと戦わされた経験、そうして、波の音。
「……最低」
 つぶやいて、陽子は周囲を見わたした。
 あたりは浜辺によくある松林に見える。海の近く、夜明け前。そして自分は死にもせず身動きできぬほどの怪我も受けていない。──それが陽子の得た情報のすべてだった。
 林にはなんの気配もなかった。おそらく敵も近くにはいない。そうして──味方も近くにはいない。
 海面に映った月の影からすべり出たとき、月は高いところにあった。今は夜明け。それほどの時間、自分がひとりで放っておかれたからには、ケイキたちとはぐれたのにちがいない。
 ──|迷子《まいご》になったときは動かないこと。
 陽子は小さく口の中でひとりごちた。
 きっとケイキたちが探してくれるだろう。あんなにえらそうに守ると言っていたのだから。軽はずみに動けば、かえってすれちがってしまうおそれがある。
 そう考えて身体を近くの|幹《みき》にもたせかけると、さやにむすびつけられた|珠《たま》をにぎってみる。あちこちの痛みがそれでゆっくりと引いていった。
 不思議だと、そう思う。
 あらためて珠を見ても、ただの石にしか見えない。ガラスっぽい光沢の、とろりとした青をしていた。青い|翡翠《ひすい》があるとすれば、こんなものかもしれない。
 そんなことを考えてから、|堅《かた》く珠をにぎりなおす。じっとそこに座ったまま目を閉じていた。
 目を閉じているあいだにほんのすこしだけ眠ったのだろう、次に陽子が目を開けると、あたりには薄い光が満ちて、風景は早朝の色をしていた。
「遅い……」
 彼らはなにをしているのだろう。どうして自分をこんなに長時間放っておくのだろう。ケイキは、カイコは、ヒョウキは。
 陽子は迷ったすえに口に出してみる。
「……ジョウユウ、さん」
 まだ自分の身体にとり|憑《つ》いているはずだ。そう思って声をかけたが、返答はなかった。自分の体をあらためてみても、そこにジョウユウのいる感触はない。もともと剣をふるうときでなければ、いるのかいないのかわからない相手だから、はぐれたのかどうかわからなかった。
「いるの? ケイキさんたちはどうしたの?」
 何度聞いてみても、なんの応答も気配もない。
 不安が頭をもたげた。ひょっとしたらケイキたちは、陽子を探したくても探せないのではないだろうか。墜落する直前に聞いた悲鳴がよみがえった。敵の群れのなかに残してしまったヒョウキはぶじなのだろうか。
 不安に押されて立ちあがった。ギシギシ悲鳴をあげる身体をなだめて立ちあがり、あたりを見わたす。周囲は松の林、すぐに右手に林の切れ目が見える。とりあえずそこまで行くのは危険なことではないだろう。
 林の外はボコボコとした荒地だった。白茶けた土に低い|潅木《かんぼく》がしがみついている。
 その先は|断崖《だんがい》だった。断崖の向こうは黒い海が見える。昨夜見た海も黒かったが、夜のせいだと思っていた。夜が開けた今になってもあんなに暗いのは、海の色じたいが相当に深いからなのだろう。
 陽子は引きよせられるように崖へ向かって歩いた。
 デパートの屋上から見おろしたほども崖の高さはある。そこから海を見て、しばらく陽子は|呆然《ぼうぜん》としていた。
 高さのせいではない。足元に広がる海の異様さに打たれて。
 海は限りなく黒に近い|紺《こん》に見えた。水面に下っていく崖の線をたどってみると、水に色がついてるわけではない。むしろ恐ろしく澄んでいる。
 それは想像を絶するほどふかい海の、深海にわだかまる闇が透明な水のせいであらわになったような印象を与えた。光が届かないほど深い底を見おろしている、という感覚。
 そのふかい海の、深いところに小さな光がともっている。それがなんなのかわからないが、砂粒ほどに見える光が点々とともり、あるいは集まって薄い光の集団を作っている。
 ──星のように。
 |目暈《めまい》がして陽子は崖に座り込んだ。
 それはまさしく宇宙の景観だった。写真で見た星や星団や星雲や、そういったものが自分の足元に広がっている。
 ──ここは知らない場所だ。
 突然にわきあがってきた思考。直視しないようにしてきたものが噴き出してきて止められない。
 ここは陽子の知る世界ではない。こんな海を陽子は知らない。まさしく陽子は別世界に紛れこんでしまったのだ。
 ──いやだ。
 「うそでしょう……」
 ここはどこで、どういうところなのか。危険なのか安全なのか。これからいったいどうすればいいのか。
 どうしてこんなことになってしまったのか。
「……ジョウユウ、さん」
 陽子は目を閉じて声をあげる。
「ジョウユウ! お願い、返事をして!」
 身体の中には潮騒のような音だけ。|憑依《ひょうい》したはずの者からは返答がない。
「いないの!? 誰か、助けてよ!!」
 一晩がすでにたった。家では母親がさぞ心配しているだろう。父親は今ごろひどく怒っているにちがいない。
「……帰る」
 つぶやくと涙がこぼれた。
「あたし、家に帰る……っ」
 いったん、あふれ始めると止まらなかった。陽子は|膝《ひざ》を抱いて顔を伏せる。声をあげて泣き始めた。

 額が熱を持つほど泣いてから、ようやく陽子は顔をあげた。泣きたいだけ泣いて、すこしだけ落ちついた。
 ゆっくりと目を開けてみる。目の前には宇宙のように見える海が広がっている。
「……不思議」
 星空を見おろしている気分がした。満天の星空。水の中で星雲はゆるやかに回転している。
「不思議できれい……」
 ようやく落ちついた自分を自覚した。
 陽子はぼんやりと水の中の星を見つめていた。

   2

 太陽が天頂を越えるまで、陽子はそこで海を見ていた。
 ここはいったいどういう世界で、どんな場所なのだろう。
 こちらに来るのには月の影を通ってきたが、あれじたいがそもそもおかしい。月の影をつかまえるなど、夕陽をつかまえるのと同様にできるはずのないことだ。
 ケイキと、その周りにいた不可解な獣たち。陽子の世界にあんな獣はいない。まちがいなく、あれはこちらの生き物だろう。──そこまでは理解できるのだけど。
 ケイキはいったい、なにを思って陽子をここへ連れてきたのか。危険だといい、守ると言ったが、陽子はこうして放置されている。
 ケイキたちはどうしたのか。あの敵はいったい何者で、なにを目的に陽子を襲ったのだろう。それがぜんぶ夢にそっくりだったのはどういうわけなのだろう。──そもそも陽子はなぜひと月もあんな夢を見つづけたのか。
 考えはじめるとわからないことばかりで、思考が迷子になりそうだった。ケイキに出会ってからというもの、なにもかもが疑問符でできていて、陽子に理解できることのほうが少ない。
 ケイキがうらめしくてならなかった。
 突然現れて陽子の事情にはかまわず、得体の知れない世界に無理やり引きずり込んだ。ケイキにさえ会わなければ、こんなところに来ることもなかったし、バケモノとはいえ生き物を殺すような事態にだってならなかったはずだ。
 だからなつかしいとは思えないが、ケイキ以外に頼るものがない。なのにケイキたちは陽子を迎えに来ない。あの戦闘でなにかがおこって迎えに来たくても来れないのか、それともなにか事情があるのか。
 それでいっそう自分のおかれた状況が困難なものに思えた。
 ──どうして自分がこんな思いをしなければならないのだろう。
 陽子はなにをしたわけでもない。ぜんぶケイキのせいだ。そう考えると、バケモノに襲われたのまでケイキのせいのような気がする。
 職員室で聞いた声は「つけられていた」と言わなかったか。ケイキは「敵」と言っていたが、それは陽子の敵という意味ではないはずだ。陽子にはバケモノに敵を作る心当たりなどない。
 陽子はケイキの|主《あるじ》だという。それがそもそもの原因だという気がした。陽子がケイキの主だから、ケイキの敵に|狙《ねら》われた。その敵から身を守るために剣を使わなければならなかったし、こんなところに来なければならなかった。
 しかし、主になった覚えなど、陽子にはないのだ。
 主と呼ばれるいわれがあるとは思えなかった。だとしたら、ケイキの誤解か、勝手な思いこみだろう。
 ケイキは「探した」と言っていた。きっと彼は主を探していて、なにか重大な間違いを犯してしまったのだ。
「なにが、守る、よ」
 陽子は小声で毒づく。
「ぜんぶ、あんたのせいじゃない」

 短かった影が伸び始めて、ようやく陽子は腰をあげた。ここにずっと座ってケイキに毒づいていても、どうにもならないことだけは確実だった。
 陽子は左右を見わたす。崖はどちらの方向へ行っても、切れ目がなさそうに見えた。しかたなくきびすを返し、もといた松林のほうへ戻る。コートはなかったがさほど寒いとは感じなかった。ここは、陽子が住んでいた街よりも気候が良いようだった。
 さして深くもない林は、台風のあとのように折れた枝が散乱している。そこを抜けると、沼地が広がっていた。
「……・・・?」
 よく見れば、そこは沼地ではなく泥が流れ込んだ|田圃《たんぼ》だった。
 ところどころ水面に、まっすぐに整備された|畦《あぜ》が顔を出していた。丈の低い緑の植物が頭だけを泥の上に出して、吹き倒されてしまっている。
 見わたす限り泥の海で、離れたところに人家が小さな集落を作っているのが見える。その向こうは|険《けわ》しい山だった。
 電柱や鉄柱のようなものは見えない。遠くにある集落にも電線のようなものはいっさい見えないし、建物の屋根にアンテナのようなものもなかった。
 屋根は黒い瓦、壁は黄ばんだ土壁に見えた。集落の周りを取り囲むようにして背の低い木が植えられていたが、ほとんどが倒れてしまっている。
 覚悟していたような異常な風景があるわけでもなく、建物があるわけでもなく、陽子はひそかに胸をなでおろした。すこしばかり雰囲気は違うが、それは気抜けするくらい日本のあちこちで見かける田園風景に似ていた。
 |安堵《あんど》してよくよくあたりを見わたすと、松林からはかなり遠いところに数人の人影が見える。背格好は定かではないが、べつにバケモノじみたシルエットには見えない。田圃で作業をしているようだった。
「よかった……」
 思わず声がもれた。最初にあの海を見てすっかり|狼狽《ろうばい》してしまったがこの風景はそれほど異常には見えない。電気が来ていないようだ、という点を無視すれば日本のどこかにありそうな村だ。
 陽子はふかく息をつき、それから遠くに見える人々に声をかけてみることに決めた。見ず知らずの人に話し掛けるのは|気後《きおく》れするが、陽子ひとりではどうにもならない。言葉が通じるかどうか、ふと疑問に思ったが、とにかく誰かに助けを求めなければならなかった。
 |怖《お》じけづく気分を|励《はげ》ますようにして、陽子は口の中で唱える。
「事情を説明して、ケイキたちを見なかったか聞いてみる」
 とにかくそれしか陽子にできることはなかった。

 なんとか歩ける|畦《あぜ》を探して、陽子は農作業を続ける人影のほうへ歩いていった。近づくにつれ、彼らが少なくとも日本人でないことはわかった。
 茶色い髪の女がいて、赤い髪の男がいる。ひどくケイキに似た雰囲気があった。
 顔立ちや体つきはすこしも白人のようでないのに、とってつけたように髪の色だけが違うせいだろう。その点を除けばごく普通の男女のようだった。
 着ているものは着物に似たすこし変わった服で、男の全員が髪を伸ばしてくくってはいたが、それ以外に特に異常は見当たらない。彼らはシャベルのようなものを突き立てて、畦を壊そうとしているようだった。
 作業をしていた男のひとりが顔をあげた。陽子を見て周囲の人間をつつく。なにか声をかけていたが、特に耳なれない音には聞こえなかった。その場にいた八人ほどの男女が陽子のほうを見て、陽子はかるく頭を下げた。ほかにどうすればいいか思いつかなかった。
 すぐに三十前後の黒髪の男がひとり、畦にあがってきた。
「……あんた、どこから来たんだね」
 日本語を聞いて、陽子は心底ほっとした。自然に笑みが浮かぶ。思ったほどひどい状況ではないようだ。
「崖のほうからです」
 ほかの男女は手を止めて、陽子と男を見守っている。
「崖のほう? ……|郷里《くに》は」
 東京です、と言いかけて陽子は口をつぐんだ。事情を話す、と簡単に考えていたが、果たして正直に事情を話して信じてもらえるのだろうか。
 陽子が迷っているうちに、男が重ねて聞いてきた。
「妙な格好をしているが、まさか海から来たのかい」
 それは事実ではなかったが、かなり事実に近かったので陽子はうなずいた。男が目を丸くする。
「なるほど、そういうことかい。こいつは驚いた」
 男は皮肉な笑みを浮かべて、陽子には理解できない納得のしかたをした。不穏な目つきでにらむようにしてから、陽子の右手に視線をとめた。
「たいそうなもんを持ってるな。それはどうしたんだ?」
 さげたままの剣のことを言っているのだとわかった。
「これは……もらったんです」
「誰に」
「ケイキというひとです」
 男は陽子のすぐそばまで歩み寄ってくる。陽子はなんとなく一歩さがった。
「あんたには重そうだな。──よこしな。俺が預かってやろう」
 陽子は男の目つきにすこし|怯《おび》える。親切だけで言っているとは思えなかった。それで剣を胸に抱いて首を横にふる。
「……だいじょうぶです。それより、ここはどこなんですか?」
「ここはハイロウだ。人にものを聞くのに、そんな物騒なものをちらつかせるもんじゃない。それをよこしな」
 陽子はあとじさった。
「放してはいけないといわれているんです」
「よこせ」
 強く言われて陽子はおじけた。いやです、と言い通す|覇気《はき》を持てなくて、しぶしぶ剣を男に向かってさしだす。男はひったくるようにうけとって、剣をしみじみ眺めた。
「たいした造作だ。これをくれた男は金持ちだったろう」
 見守っていた男女が集まってきた。
「どうした。カイキャクか」
「そのようだ。みろや、たいそうなしろものだ」
 男は笑って剣を抜こうとする。しかし、どうしたわけか刀身は|鞘《さや》を動かなかった。
「飾りもんか。──まぁ、いい」
 男は笑って剣を腰の帯に差す。それからいきなり腕を伸ばして陽子の腕をつかんだ。陽子が悲鳴をあげるのもかまわず、男は乱暴に陽子の腕をねじりあげる。
「……痛い! 放して!」
「そうはいかないなぁ。カイキャクは県知事に届けるのが決まりだ」
 笑いながら言って、男は陽子を押し出す。
「さ、歩きな。なぁに、悪いようにはしないからよ」
 男は陽子をむりやり歩かせて、周囲のものに声をかける。
「誰か手伝ってくれ。つれて行こう」
 ──腕が痛い。この男は正体が知れない。どこへ連れて行かれるのか不安を感じる。
 心底放してほしいと思った。思ったとたん、手足に冷たい感触がつたって、陽子は男の手をふりほどいていた。腕が勝手に伸びて男の腰の剣を|鞘《さや》ごと引き抜く。大きく跳んであとじさった。
「……てめえ」
 すごむ男に周囲の人間が声をかける。
「気をつけろ、剣を──」
「なぁに。あれは飾りもんさ。おい、娘。おとなしくこっちへ来い」
 陽子は首をふった。
「……いや」
「引きずっていかれたいのか? いきがったまねをせずにこっちへ来い」
「……いやです」
 遠くからも人が集まりはじめていた。
 男が踏み出す。陽子の手は剣を鞘から抜いていた。
「なにぃ!?」
「近づかないで……ください」
 棒を飲んだように動けない人々を見わたして、陽子はあとじさる。身をひるがえして逃げ出すと、背後から追ってくる足音がした。
「来ないで!」
 ふりかえって追ってくる男たちを認めるやいなや、身体が動いてその場に踏みとどまった。剣が身構えるようにあがる。音を立てて血の気が引いた。
「やめて……!」
 突っこんでくる男に向かって剣が動く。
「ジョウユウ、やめて!」
 ──だめだ。それだけは、できない。
 切っ先が|鮮《あざ》やかな|弧《こ》を描いた。
「人殺しはいやぁっ!!」
 叫んで堅く目を閉じた。ぴた、と腕の動きがとまった。
 同時に強い力で引き倒される。誰かが馬乗りになって剣をむしり取った。痛みよりも|安堵《あんど》で涙がにじんだ。
「ふざけた娘だ」
 乱暴にこづかれたが、痛みを感じる余裕はなかった。引きずるように立たされて、二人の男に両腕をうしろ手にねじりあげられる。
 抵抗する気にはなれなかった。ひたすら心の中で、動かないで、とジョウユウに願う。
「村につれていけ。その妙な剣もだ。それごと県知事に届けるんだ」
 どんな男が言ったのか、目を閉じた陽子にはわからなかった。

   3

 陽子は引き立てられ、|田圃《たんぼ》のあいだをうねって続く細い道を歩かされた。
 十五分ほど歩いてたどりついたのは、高い|塀《へい》に囲まれた小さな街だった。
 さっき見た集落は何軒かの家が集まっただけだったが、ここは高さが四メートル近くもありそうな塀が町の周囲を取りまいていて、四角いその外周の一方に大きな門がある。いかにも頑丈そうな|門扉《もんぴ》は内側に向かって開かれていて、そのむこうに赤く塗られ、何かの絵を描いた壁が見える。壁の手前には、どうしたわけか誰も座っていない木製の椅子がひとつ置き去りにされていた。
 背後から押されて陽子は街のなかに踏みこむ。赤い壁を|迂回《うかい》すると門前の通りが一望できた。
 その街の風景は、どこかで見たようで、同時にひどく異質な感じがした。
 どこかで見たことがあるような気がするのは、建物の雰囲気が東洋的だからだろう。白い|漆喰《しっくい》の壁、黒い|瓦《かわら》屋根、枝を差しかけたひねくれた形の樹木。にもかかわらずすこしも親近感を感じないのは、まったく人の気配がないからにちがいない。
 門前からは正面に広い道が、左右に細い道が伸びていたが、そこには人の姿まったくなかった。建物は一階建て、道に面しては|軒《のき》の高さの白い塀が続いている。その塀が一定の間隔で切れて、そこから小さな庭をへだてて建物が見えた。
 どの家も大きさに大差はなく、建物の外観も細部は違ってるもののよく似ている。それでひどく無機的な感じがした。
 家によっては窓が開いていて、そとへ向かって押しあげる板戸を竹の棒で支えてあったが、窓が開いているのがかえって白々しいほど街はみごとに人の気配がない。道にも家にも犬一匹見あたらなかったし、なんの物音もしなかった。
 正面の広い通りは長さが百メートルほどしかなくて、突き当りには広場がある。白い石に鮮やかな彩色をほどこした建物が見えたが、鮮やかな色がひどくそらぞらしい感じがした。左右の細い道は三十メートルほどで直角に曲がって、突き当たりは街の外壁。その曲がり角の向こうからも人の気配は伝わってこない。
 見わたしてみても抜きん出て高い屋根はなかった。黒い瓦の屋根の上に、街の外壁がのぞいている。視線をめぐらせれば、外壁の形が見て取れる。それは奥行きの深い細長い四角形をしていた。
 |窒息《ちっそく》しそうなほど狭い街だった。広さはおそらく、陽子が通っていた高校の半分もないだろう。街の広さに対して外壁があまりに高い。
 まるで|水槽《すいそう》のなかのようだ、と陽子は思った。大きな水槽の、水の底で眠りについた|廃墟《はいきょ》のような街だった。

 陽子は、正面に見えた広場を囲むように建った建物のなかにつれて行かれた。
 この建物は中華街の建物を思わせる。赤く塗られた柱、鮮やかな色の装飾、なのにどこかそらぞらしい感じがするのは街の雰囲気と変わらない。建物のなかには細長い廊下が真一文字に通っていたが、これも暗く、やはり人の気配はなかった。
 陽子をつれてきた男たちは、なにごとかを相談してからこづくようにして陽子を歩かせ、小さな部屋の中に押しこめた。
 陽子が閉じ込められた部屋の印象は、一言で言うなら|牢獄《ろうごく》だった。
 床には|瓦《かわら》のようなタイルを敷きつめてあったが、割れたり欠けたりしたものが多い。壁はすすけてひびの入った土壁で、高いところに小さな窓がひとつ、そこには|格子《こうし》がはまっている。ドアがひとつ。このドアにも格子のついた窓があって、そこからドアの前に建った男たちが見えた。
 木製の椅子がひとつと小さな机がひとつ、畳一枚分の大きさの台があって、それで家具はぜんぶだった。台の上には厚い布が貼ってある。どうやらそれが寝台のようだった。
 ここはどこで、どういう場所なのか、自分はこれからどうなるのか、聞きたいことは山ほどあったが、監視者にそれを聞く気にはなれない。男たちのほうも陽子に話しかけるつもりはないようだった。それで寝台に座り、だまってうつむいている。それよりほかにできることがなかった。

 建物のなかで人の気配がしたのは、ずいぶんと時間がたってからだった。ドアの前に誰かがやってきて、見張りが代わった。新しい見張りはふたりの男で、どちらも剣道の防具のような青い|革《かわ》の|鎧《よろい》をつけているから、警備員か警察官のようなものなのかもしれない。これからなにがおこるのかと息をつめたが、鎧の男たちは険しい視線を陽子に向けただけで、放しかけてくるわけでもなかった。
 それが多少ひどいことでも、なにかがおこっているあいだはいい。放置されていると不安で不安でたまらなかった。何度か外の兵士たちに放しかけてみようとしたが、どうしても声にならない。
 叫びたくなるほど長い時間がたって、|陽《ひ》も落ち、牢獄の中がまっくらになってから三人の女がやってきた。先頭に立ってあかりを持った白髪の老婆は、いつか映画で見た古い中国ふうの着物を着ている。
 やっと人に会えたこと、それがいかつい男ではなく女であることに陽子は|安堵《あんど》した。
「おまえたちは、おさがり」
 老婆は、いろいろなものをたずさえていっしょに入ってきた女たちに言う。ふたりの女は荷物を床におろすと、深く頭を下げて牢獄を出ていった。老婆はそれを見送ってから机を寝台のそばに引きよせ、ランプに似た|燭台《しょくだい》を机の上におく。さらに水の入った桶をおいた。
「とにかく、顔を洗いなさい」
 陽子はただうなずいた。のろのろと顔を洗って手足を洗う。手は赤黒く汚れていたが、洗うとすぐにもとの色をとりもどした。
 陽子は今になって、手足が重く|強《こわ》ばっているのに気がついた。おそらくはジョウユウのせいだろう。陽子の能力を超えた動きを何度もしたせいで、あちこちの筋肉が硬直してしまっている。
 できるだけゆっくりと手足を洗うと、細かい傷に水がしみた。髪を|梳《す》こうとして、うしろでひとつにまとめて三つ編みにしていたのをほどいた。異変に気づいたのはそのときだった。
「……なに、これ」
 陽子はまじまじと自分の髪を見る。
 陽子の髪は赤い。特に毛先は脱色したような色になってしまっていた。──しかし。
 三つ編みをほどいたむ髪はかすかに波打っている。その髪の色。
 この異常な色はどうだろう。
 それは、赤だった。|血糊《ちのり》を染めつけたように、深い深い紅に変色している。赤毛という言葉があるが、この色がとうてい赤毛と呼べるとは思えなかった。ありえない色だ。こんな異常な。
 それは陽子を震えさせた。自分が獣になる夢の中でみた、赤い毛並みの色にあまりにもよく似ていた。
「どうしたんだね?」
 老婆が聞いてくるのに、髪の色が変だ、と訴えた。老婆は陽子の言葉に顔をかたむける。
「どうしたんだい? べつになにも変じゃないよ。珍しいけれどきれいな赤だよ」
 老婆が言うのに首をふって、陽子は制服のポケットの中を探った。手鏡を引っ張り出す。そうして、間違いなく真紅に変色した自分の髪を確認し、ついでそこにいる他人を見つけた。
 陽子には一瞬、それがどういう意味なのかわからなかった。手をあげておそるおそる顔をなで、その動きにつれて鏡のなかの人物の手も動いて、それが自分なのだとわかって|愕然《がくぜん》とした。
 ──これはあたしの顔じゃない。
 髪の色が変わって雰囲気が変わっていることを差し引いても、これは他人の顔だった。その顔の|美醜《びしゅう》はこの際たいした問題ではない。問題は明らかに他人の顔になっている自分、日に焼けたような肌と、深い緑色に変色した瞳だった。
「これ、あたしじゃない」
 |狼狽《ろうばい》して叫んだ陽子に、老婆はけげんそうな顔をした。
「なんだって?」
「こんなの、あたしじゃない!」

 とりみだした陽子の手から、老婆は手鏡を取りあげた。ごく落ちついた動作で鏡をのぞきこみ、それから陽子に手鏡を返す。
「鏡がゆがんてるわけじゃないようだね」
「でも、あたしはこんな顔じゃないんです」
 そういえば、声もなんだかちがう気がする。まるで別人になってしまったようだ。獣でもバケモノでもない。だが、しかし──。
「それじゃあ、あんたの姿がゆがんでるんだろうね」
 |微笑《わら》いまじりの声に陽子は老婆をふりあおいだ。
「……どうして?」
 言って陽子はもう一度鏡を見直す。自分がいるべき場所に他人がいるのは妙な気がした。
「さてねえ。それはあたしなんかにはわからないね」
 老婆はそう言って、陽子の手をとる。腕についた小さな傷に、なにかを|浸《ひた》した布を当てた。
 鏡のなかの自分は、よく見てみるとかすかに見なれた面影を残していた。ほんとうに、ごくかすかにではあったけれど。
 陽子は鏡をおいた。もう二度と見ないと決めた。鏡をのぞいてみるのでなければ、自分がどんな顔をしているか関係のないことだ。髪は鏡を使わなくても見えるが、それは染めたと思えば我慢できるだろう。べつに自分の容姿を気に入っていたわけではないが、この変化を二度と直視する勇気が陽子にはなかった。
「あたにはわからないが、そういうこともあるんだろうさ。そのうち気分が落ち着いたら、なれるだろうよ」
 老婆はそう言って机から桶をおろすと、かわりに大きなどんぶりをおく。|餅《もち》のようなものが沈んだスープが入っていた。
「おあがり。たりなければ、もっとあるからね」
 陽子は首を横にふった。とうてい食事をする気分ではない。
「……食べないのかね?」
「ほしくありません」
「口をつけてみると、意外におなかがすいていたりするものだよ」
 陽子はだまって首をふった。老婆はかるく息をついて、背の高い水差しのような|土瓶《どびん》からお茶を注いでくれた。
「あっちから来たんだね?」
 聞きながら老婆は椅子を引きよせて腰をおろす。陽子は目をあげた。
「あっち?」
「海の向こうさ。キョカイを渡ってきたんだろう?」
「……キョカイって、なんですか?」
「崖の下の海だよ。なんにもない、まっくらな海」
 あれはキョカイというのか、と陽子はその音を頭のなかにしまった。
 老婆は机の上に紙を広げた。|硯《すずり》の入った箱をおく。筆を取って陽子にさしだした。
「あんた、名前は?」
 陽子はとまどいつつも、おとなしく筆をうけとって名前を書きつけた。
「中嶋、陽子です」
「日本の名前だね」
「……ここは中国なんですか」
 陽子が聞くと老婆は首をかたむける。
「ここは|巧国《こうこく》だ。正確には|巧州国《こうしゅうこく》だね」
 言いながら老婆は別の筆をとって文字を欠きつけてゆく。
「ここは|淳《じゅん》州|符楊《ふよう》郡、|廬江《ろこう》郷|槙《しん》県|配浪《はいろう》。あたしは配浪の長老だ」
 書きつけられた文字は、すこしだけ細部がちがっている。それでも漢字にちがいなかった。
「ここでは漢字をつかうんですか?」
「文字ならつかうともさ。あんたはいくつだね」
「十六です。じゃ、キョカイというのも漢字が?」
「虚無の海と書くね。──仕事は?」
「学生です」
 陽子が答えると、老婆はかるく息をつく。
「言葉はしゃべれるようだね。文字も読めるようだし。あの妙な剣のほかに、なにを持ってる?」
 問われるまま、陽子はポケットの中をあらためた。ハンカチと|櫛《くし》、手鏡と生徒手帳、壊れた腕時計、それでぜんぶだった。
 ならべてみせると、老婆はどういう意味なのか、頭をふる。ため息をつくようにして机の上の品物を着物の|懐《ふところ》におさめた。
「あたし、これからどうなるんですか」
「さてね。そんなのは上の人が決めることだ」
「あたし、なにか悪いことをしたんですか?」
 まるで罪人のようにあつかわれている、と陽子は思う。
「べつに悪いことをしたわけじゃない。ただ、カイキャクは県知事へ届けるのが決まりでね。悪く思わないでおくれ」
「カイキャク?」
「海から来る来訪人のことさ。海の客、と書く。虚海のずっと東のほうから来ると、そう言われている。虚海の東の果てには日本という国があるそうだ。べつにたしかめた者がいるわけじゃないけど、実際に海客が流れてくるんだからそうなんだろうね」
 老婆は言って陽子を見た。
「日本の人間がときおりショクに巻きこまれて東の海岸に流れつく。あんたのようにね。それを海客というんだよ」
「ショク?」
「食べる、に虫と書くんだ。そうだね、嵐みたいなものかね。嵐とはちがって、突然はじまって、突然終わる。そのあとで海客が流れつくんだ」
 言って老婆は困ったような|微笑《わら》いを浮かべる。
「たいがいは姿態だけどね。海客は生きていても死んでいても上へ届けることになってる。上のほうのえらい人があんたをどうするか決めるんだ」
「どうするか?」
「どういうことになるのか、ほんとうのことは知らないよ。ここに生きている海客が流れついたのは、あたしのお|祖母《ばあ》さんのとき以来のことだからね。その海客は県庁に送られる前に死んだそうだ。あんたは|溺《おぼ》れずにたどりついた。運がよかったね」
「あの……」
「なんだえ」
「ここはいったい、どこなんですか?」
「淳州だよ。さっき、ここに」
 地名を書きつけた場所を示す老婆を制した。
「そうじゃありません!」
 キョトンとする老婆に向かって陽子は訴える。
「あたし、虚海なんて知りません。巧国なんて国、知りません。こんな世界、知らない。ここはどこなんですか!?」
 困ったように息をついただけで、老婆はそれに答えなかった。
「……帰る方法を教えてください」
 あっさり言われて、陽子は両手をにぎりしめる。
「ない、って」
「人は虚海を越えられないのさ。来ることはできても、行くことはできない。こちらから向こうへ行った人間も、帰った海客もいない」
 言葉が胸の底に落ちつくまでにすこしかかった。
「……帰れない? そんなバカな」
「むりだね」
「だって、あたし」
 涙がこぼれた。
「両親だって、いるんです。学校にだっていかなきゃならないし。ゆうべだって外泊だし、今日だって無断欠席だし、きっとみんな心配して」
 老婆は気まずそうに視線をそらす。立ちあがって、あたりのものをかたづけはじめた。
「……あきらめるしかないね」
「だってあたし、こんなところに来るつもりなんて、ぜんぜんなかった!」
「海客はみんなそうだよ」
「ぜんぶむこうにあるんです。なにひとつ持ってこなかった。なのに帰っちゃいけないの!? あたし……」
 それ以上は言葉にならなかった。声をあげて泣きはじめた陽子にはかまわず、老婆は部屋を出ていく。運び込まれたものが運び出されて、ひとすじの光さえなかった。
「あたし、家に帰りたい……!」
 体をおこしていることが困難で、寝台に身体を丸めた。そのまま声をあげて泣いて、やがて泣き疲れて気を失うように眠りについた。
 夢は、見なかった。

   5

「起きろ」
 そう言って陽子は叩き起こされた。
 泣き疲れた|瞼《まぶた》が重い。ひどく光が目にしみた。疲労と|飢《う》えで深い脱力を感じたが、なにかを食べたいとは思わなかった。
 牢に入ってきて陽子を起こした男たちは、陽子の身体にかるく|縄《なわ》をかけた。そのままそとに押し出される。建物から出たところにある広場には馬車が待っていた。
 二頭の馬に荷車をつないだ馬車の上に乗せられ、そこから周囲を見わたすと広場のあちこちや道のかどに大勢の人間が集まって陽子のほうを見ていた。
 これだけの人間が、昨日見た廃墟のような街のどこにひそんでいたのだろう。
 誰もが東洋人のようだが、髪の色がちがう。大勢集まると、それがひどく奇異な感じがした。誰もが好奇心や嫌悪をないまぜにした表情をしている。ほんとうに護送される犯人のようだと陽子は思う。
 目を開けてから、ほんとうに目覚めるまでの一瞬のあいだに、ぜんぶが夢だったらどんなにいいだろうか、と心から念じた。それはすぐに陽子を乱暴に引きずりおこす男の手によって破られたのだけれど。
 身づくろいするひまも、顔を洗うひまも機会も与えられなかった。海に飛び込んでそのままの制服は、|淀《よどんだ》んだ海の臭気を漂わせている。
 男がひとり、陽子の隣に乗りこんで、御者が馬に|手綱《たづな》を繰り出す。それを見ながら、お風呂に入りたいな、と陽子はボンヤリ思った。たっぷりのお湯のなかに身体を沈めて、いい匂いのするソープで身体を洗って。新しい下着とパジャマに着替えて、自分のベッドで眠りたい。
 目が覚めたらお母さんの作ったご飯を食べて、学校へ行く。友達とあいさつをして、たあいのないおしゃべりをして。そういえば化学の宿題が半分残っていた。図書館から借りた本ももう返さなくてはならない。ゆうべ、ずっと見ていたドラマがあったのに見逃してしまった。母親が思い出して録画しておいてくれるといいのだけれど。
 考えていると|虚《むな》しくて、どっと涙があふれた。陽子はあわててうつむく。顔をおおいたかったが、うしろ手に縛られていてそれもできなかった。
 ──あきらめるしかないね。
 そんな言葉は信じない。ケイキだって戻れないとは言わなかった。
 ずっとこのままでなんてあるはずがない。着がえることも顔を洗うこともできなくて、罪人のように縄をかけられて汚い馬車に乗せられて。たしかに陽子は聖人のように善良ではなかったが、こんな仕打ちをうけるほどの悪人でもなかったはずだ。
 頭上を後ろへさがっていく門を見ながら、陽子は縛られたままの肩口に|頬《ほほ》を寄せて涙をぬぐった。隣に座った三十がらみの男は胸に布袋を抱いて淡々と風景を見ている。
「あの……どこへ行くんですか」
 おそるおそる陽子が声をかけると、疑うような目つきで見返してきた。
「しゃべれるのかい」
「はい。……あたしはこれから、どこへ行くんですか?」
「どこって。県庁だ。県知事のところにつれて行く」
「それからどうなるんですか? 裁判かなにか、あるんですか」
 どうしても自分が罪人だという考えが消えない。
「おまえが良い海客か、悪い海客か、それがはっきりするまでどこかに閉じ込められることになるな」
 男の突き放すような物言いに、陽子は首をかたむけた。
「良い海客と、悪い海客?」
「そうだ。おまえが良い海客なら、しからべきお方が後見人について、おまえは適当な場所で生活することになるだろうよ。悪いほうなら|幽閉《ゆうへい》か、あるいは死刑」
 陽子は反射的に身をすくめた。背筋に冷たい汗が浮く。
「……死刑?」
「悪い海客は国を滅ぼす。おまえが凶事の前ぶれなら、首を|刎《は》ねられる」
「凶事の前ぶれって?」
「海客が戦乱や災害をつれて来ることがある。そういうときは、早く殺してしまわなくては、国が滅ぶ」
「それをどうやって見きわめるんです?」
 男はうっすらと皮肉な色の笑みを浮かべた。
「しばらく閉じこめておけばわかる。おまえが来て、それから悪いことがおこれば、おまえは|凶事《きょうじ》の先触れだ。もっとも」
 男は|剣呑《けんのん》な目つきで陽子を見る。
「おまえはどちらかというと凶事を運んできそうだな」
「……そんなこと」
「おまえが来たあの|蝕《しょく》で、どれだけの|田圃《たんぼ》が泥に沈んだと思う。|配浪《はいろう》の今年の収穫は全滅だ」
 陽子は目を閉じた。ああ、それで、と思う。それで自分は罪人のようにあつかわれているのか。村人にとってすでに陽子は凶事の前ぶれなのだ。
 怖い、と切実に思った。死ぬのは怖い。殺されるのはもっと怖い。こんな異境でもしも死んだとしても、誰も惜しまず泣いてもくれない。たとえ死体だけにしても家に帰ることさえできないのだ。
 ──どうしてこんなことに。
 どうしてもこれが陽子の命運だとは信じられなかった。|一昨日《おととい》にはいつものように家を出たのだ。母親には行ってきます、とだけ言った。いつものように始まって、いつものように終わるはずだった一日。いったいどこで、なにを踏みちがえてしまったのだろう。
 村人に声をかけたのがいけなかったのか。そもそも崖でじっとしているべきだったのか、陽子をこちらにつれてきた、あの連中とはぐれたのがいけなかったのだろうか。──それとも、そもそもあの連中についてきたのがいけなかったのか。
 しかし陽子には選択の余地などなかったのだ。ケイキは力ずくでもつれて行く、と言った。ばけものに追われて、陽子だってなんとかして身を守らねばならなかった。
 まるでなにかの|罠《わな》の中にはまりこんでしまったようだ。ごくあたりまえに見えたあの朝にはすでになにかの罠のなかにあって、それが時間と共に引き絞られた。おかしいと思ったときにはすでにぬきさしがならなかった。
 ──逃げなきゃ。
 陽子は身体だけが|焦《あせ》って暴れだしそうになるのを抑える。失敗は許されない。逃げそびれたりしたら、どんな仕打ちを受けるかわからない。機会をうかがって、どうにかしてこの|窮地《きゅうち》から逃げ出さなければ。
 陽子の頭のなかで、なにかが猛烈な勢いで回転をはじめた。こんな速度でものを考えたことは生まれて初めてかもしれない。
「……県庁まではどれくらいかるんですか?」
「馬車なら半日、ってところかな」
 陽子は頭上を見あげた。空は台風のあとのような青、太陽はすでに真上にある。陽が落ちる前になんとしても逃げ出す機会を見つけなければならない。県庁がどんなところかは知らないが、少なくともこの馬車よりは逃げることが難しいだろう。
「あたしの荷物はどうなったんだてすか」
 男はあやしむような目つきで陽子を見た。
「海客が持ってきたものは届け出るのがきまりだ」
「剣も?」
 男はさらにあやしげな顔をする。警戒するのがわかった。
「……聞いてどうする」
「あれは大切なものなんです」
 かるく背後で手をにぎった。
「あたしをつかまえた男の人が、とてもほしそうにしていたから。ひょっとして彼に盗まれたんじゃないかと思って」
 男は鼻を鳴らした。
「そうかしら。あれは飾りものだけど、とても高価なものなんです」
 男は陽子の顔を見て、それから|膝《ひざ》の上の布袋を開いた。中から|鮮《あざ》やかに光を|弾《はじ》いて宝剣が現れた。
「飾りものなのか、これは?」
「そうです」
 少なくとも身近にあることに|安堵《あんど》しながら、陽子は男を見つめた。男が柄《つか》に手をかける。どうぞ、抜けないで、と祈った。|田圃《たんぼ》で会った男には抜けなかった。ケイキはそれが陽子にしか使えないと言っていた。ひょっとしたら陽子以外には抜けないのではないかと、そう思ったが確信はない。
 男が手に力をこめる。柄は|鞘《さや》から|寸分《すんぶん》も動かなかった。
「へえ。ほんとうに飾りもんだ」
「返してください」
 陽子が訴えると男は皮肉な色で笑う。
「届けるのが決まりなんでな」それにおまえも首を|斬《き》られちゃ、用がないだろう。眺めようにも眺める目をつむっちゃぁな」
 陽子は唇をかむ。この縄さえなければ取り戻すことができるのに。ひょっとしてジョウユウがなんとかしてはくれないか、と思ったが、力をこめてみても縄はもちろん切れなかった。べつに怪力になったわけではないらしい。
 なんとか縄を切って剣を取り戻す方法はないものか、とあたりを見回したとき、流れていく風景の中に金色の光を見つけた。
 馬車は山道にさしかかろうとしていた。なにかの樹を整然と植えた暗い林のなかに、見覚えのある色を見つけて陽子は目を見開いた。同時にぞろり、とジョウユウの気配が肌を|這《は》う。
 林のなかに人がいた。長い金色の髪と白い顔、|裾《すそ》の長い着物に似た服。
 ──ケイキ。
 陽子が心の中でつぶやくのと同時に、たしかに陽子のものではない声が頭のなかで聞こえた。
 ──タイホ。
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回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海



 狒狒は屋根から屋上へ、屋上から電柱へ、驚異的な跳躍を繰り返して風のように駆けた。
 陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。
 狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。
「ごぶじか」
 聞かれて陽子はうなずく。|眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。
 足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。
「お泣きになっている場合ではない」
 陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。
 陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。
「……怖かった」
 つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。
「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている|猶予《ゆうよ》はないのですよ」
「追って……くる?」
 驚いて見あげると、男はうなずく。
「あなたがお|斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」
「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」
「コチョウ」
「コチョウって?」
 男は|軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。
「あれのことです」
 陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。
「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」
 短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。
 こんな|得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に|鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。
「──もうよろしいか?」
 とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。
「よろしい、って」
「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」
「出発ってどこへ?」
「あちらへ」
 あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。
 どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。
「……ちょっと待ってください」
「そんなひまはない」
 男はいらだった口調で言う。
「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」
「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」
「まっすぐに行けば、片道に一日」
「そんな、困ります」
「なにを」
 とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。
 片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を|空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。
「……困ります」
 なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。
 泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。
 ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。
「タイホ」
 男は空を見あげる。
「コチョウか」
「はい」
 ぞっ、と陽子の背筋を|悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。
「……助けてください」
 男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。
「命がおしければ、これを」
「でもあたし、こんなの使えません」
「これはあなたにしか使えない」
「あたしには、むりです!」
「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」
 呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。
 岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。
 するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。
「……なに!?」
 小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。
「いや!」
 逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。
 逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の|衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。
「いや! とって!」
 つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。
「やめて! いや!!」
「聞き分けのない。おちつかれよ」
「いや! いやだってば!!」
 冷えた|糊《のり》のようなものが背中から腕を|這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。
 膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。
「なに? なんなの!?」
「ジョウユウが|憑依《ひょうい》しただけです」
「憑依って」
 陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。
「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」
 そう冷淡に言って男は剣をさしだす。
「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」
「あれ……だけ?」
 だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。
「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」
 男は答えずに空を見あげる。
「来た」

   7

 陽子がふりかえるより先に、背後から奇声が聞こえた。
 声のほうを見あげる陽子の手のなかに、剣が押しこまれる。それにはかまわず陽子はふりかえる。背後の上空に翼を広げた巨鳥の姿が降下してくるのが見えた。
 悲鳴をあげた。逃げられない、ととっさに思った。
 逃げるよりも落下してくる鳥のほうが速い。剣なんて使えない。あんな、ばけものに|対峙《たいじ》する勇気なんてない。身を守る方法がない。
 太い脚の|鉤爪《かぎづめ》が視野いっぱいに広がった。目を閉じたかったが、できなかった。
 目の前を白い光が走って、堅い激しい音がした。岩と岩とを打ちつけたような音をたてて、|斧《おの》のように重量感のある鉤爪が顔のすぐ前で止まった。
 とめたのは剣、剣を|鞘《さや》からなかばまで引き抜いて目の前にかかげたのは、ほかでもない自分の両腕だった。
 なに? と自問するひまもなかった。
 陽子の腕が残りの刀身を引き抜いて、抜きざまコチョウの脚を払う。
 赤い血が散って、生暖かな温度をともなって陽子の顔に噴きつけた。
 陽子は|呆然《ぼうぜん》としているしかなかった。
 断じて剣を使っているのは陽子ではない。手足が勝手に動いて、|狼狽《ろうばい》したように浮上するコチョウの片脚を|斬《き》って落とす。
 また鮮血が|飛沫《しぶ》いて顔を汚した。ぬるいものが|顎《あご》から首をつたって、衿のなかに入ってくる。その感触に陽子は震えた。
 陽子の足は|血飛沫《ちしぶき》をかわすようにその場をさがった。
 宙へ逃げ出した巨鳥は、すぐさま態勢を立て直して突っ込んできた。
 その翼に斬りつけながら、陽子は自分の体が動くたび、動きにしたがって冷えたぞろぞろとする感触が身体をつたうのを感じる。
 ──あれだ。あの、ジョウユウとかいうばけもの。
 翼を傷つけられた巨鳥が、奇声をあげながら地に突っ込む。
 それを視野にとらえながら、陽子は|悟《さと》る。
 あのジョウユウとかいうばけものが自分の手足を動かしているのだ。
 |身悶《みもだ》えするように羽ばたいた巨鳥は、地を巨大な両翼で叩くようにして陽子に向かってきた。
 陽子の身体はよどみなく動いて、身をかわしざま、その胴を深く斬って捨てる。
 生暖かい|血糊《ちのり》を頭からかぶって、手には肉と骨を断つおぞけのするような感触が残った。
「いや」
 口は陽子の意思によってつぶやいたが、身体は動きをやめなかった。
 血糊が身体をつたうのもかまわず、地面に落ちてあがくコチョウの翼に深く剣を突き立てる。刺し貫いた剣をそのまま引いて大きな翼を斬り裂いた。
 そのまま陽子の身体はきびすを返して、奇声をあげ血泡を噴いてのたうつ首に向かった。
「いや。……やめて」
 巨鳥は転がるようにして傷ついた翼を大きく打ちふるっていたが、翼はもはやその体重を浮上させることができなかった。
 陽子の腕は、音をたてて宙を|扇《あお》ぐ翼を避けて胴を刺し貫いた。とっさに目をそむけたが、ぶよぶよとした抵抗を斬り裂く感触が手に残る。
 その剣を抜きざま振り上げ、|躊躇《ちゅうちょ》なくその首にふりおろした。首の骨に当たって剣が止まる。
 あらためて|粘《ねば》る血肉から引き抜いてふりあげ、赤く染まった首を今度は完全に|斬《き》り落とし、そのまだ|痙攣《けいれん》している翼で剣をぬぐったところで手足の勝手な動きが止まった。
 陽子は悲鳴をあげて、やっと剣を投げ捨てた。

 突堤の端から身を乗り出して陽子は吐いた。
 泣きじゃくりながら海中投げこまれたテトラポッドをつたって水のなかに飛びこむ。今は二月もなかばで、海の水は身を切るほど冷たいことは、まったく念頭に浮かばなかった。とにかく、頭からかぶった血糊を洗い落としてしまいたかった。
 無我夢中で水をかぶって、それでようやく落ちつくと、水のなかから|這《は》いのぼることさえできないほど震えた。
 のろのろと這いのぼって突堤に戻り、そこであらためて声をあげて泣いた。恐怖と|嫌悪《けんお》で泣かずにはおれなかった。
 声が|嗄《か》れるほど泣いて、泣く気力さえつきたころにようやくケイキが声をかけてきた。
「もう、よろしいか」
「……なに……」
 ぼんやりと顔をあげると、ケイキの表情にはなんの色もない。
「これが追っ手のすべてではありません。じきに次の追っ手が来る」
「……それで?」
 神経のどこかが|麻痺《まひ》したようだった。追っ手という言葉に恐怖を感じず、男をまっこうからにらむことにも|気後《きおく》れを感じなかった。
「追っ手は手ごわい。お守り申しあげるには、私ときていただくほかはありません」
 陽子はそっけなく返した。
「いや」
「分別のないことをおっしゃる」
「もうたくさん。あたし、家に帰る」
「家に帰ったからといって、決して安全ではない」
「もういいの、どうだって。寒いから家に帰る。……ばけものを取ってよ」
 男は陽子を見すえた。その目を陽子も淡々と見返す。
「あたしの身体に張りついてるんでしょ。ジョウユウとかいうばけものを取って」
「それは当面、あなたに必要なものだ」
「必要ない。あたし、家に帰るから」
「どこまでおろかな方か!」
 怒鳴られて、陽子は目を見開く。
「死んでいただいては困る。否とおっしゃるなら、むりにでもおいでいただきます」
「勝手なことばかり言わないで!」
 陽子は叫んだ。他人を怒鳴りつけたのは記憶にある限り、生まれてはじめてのことだったが、いったん叫んでしまうと、身内には奇妙な|高揚感《こうようかん》があった。
「あたしがなにをしたっていうのよ! あたしは、家に帰るの。こんなことに巻き込まれるのはもういや。どこへも行かない。家に帰る」
 突きつけられた剣を、陽子は乱暴に手で払いのけた。
「あたしは、家に帰りたいの! あなたに指図なんかさせない!」
「危険だと申しあげているのがおわかりにならないか!」
 陽子は薄く笑ってみせる。
「危険でもいい。あなたには関係ないでしょ」
「関係なくはない」
 男は低く吐き捨てて、陽子の背後に目線でうなずく。まえぶれもなく背後から二本の白い腕が伸びて、陽子の腕をつかんだ。
「なにをするのよ!?」
 ふりかえると、最初に剣を持って現れた鳥のような女だった。女は陽子の腕をつかんで無理やり剣を抱かせる。そのまま|羽交《はがい》いじめにするようにして抱きかかえた。
「放して!」
「あなたは私の|主《あるじ》です」
 言われて陽子はケイキを見あげる。
「主?」
「主命とあれば、どのようなことでもお聞きするが、あなたの命がかかっている。今はお許しいただきます。まずはお身の安全を|図《はか》り、事情をお聞きいただいて、その上でお帰りになりたいとおっしゃるのなら必ずお送り申しあげます」
「あたしがいつあなたの主人になったの? 勝手にやってきて、なんの説明もなしに勝手なことばかり。ふざけないでよ!」
「説明申しあげる猶予はありません」
 言ってケイキは、底冷えのする視線を陽子に向ける。
「私としてもこんな主人は願い下げだが、こればかりは私の意のままにならない。主人を見捨てることは許されない。ましてや無関係な人々をまきこむことは絶対に避けねば。否というなら力ずくでもおいでいただく。──カイコ。そのままお連れせよ」
「いや! 放して!」
 ケイキは陽子をふりかえらない。
「ハンキョ」
 呼ばれて赤い毛並みの獣が物陰から現れる。
「離れて飛べ。血の臭いが移る」
 次いでヒョウキ、と呼ばれて巨大な|豹《ひょう》に似た獣が姿を現した。女は陽子を羽交いじめにしたままその背を|跨《また》ぎ越す。
 ふうわりと、同じようにハンキョに|跨《またが》った男に陽子は訴えた。
「冗談じゃないわよ! 家に帰して! せめてあの、ばけものを取って!!」
「別に邪魔になるわけではないでしょう。ジョウユウが|憑《つ》いていたからといって、なにかを感じるわけではないはずだ」
「それでも気味が悪いの! 取りなさいよ!」
 ジョウユウ、と陽子のほうをふり向いて男は命じる。
「決して姿を現さず、ないものとしてふるまえ」
 これに対して返答はなかった。
 ケイキがうなずくと、陽子を乗せた獣が立ちあがった。とっさに自分を抱えた女の腕にしがみつくと同時に、獣は音もなく跳躍する。
「……いやだってば!」
 陽子の叫びを無視して獣は抵抗なく宙へ向かって駆けあがった。
 まるでゆるやかに宙を泳ぐようにして高度を増す。地面が眼下を遠ざかっていかなければ、動いていないのかと錯覚するほど獣の動きは穏やかだった。
 獣は宙を駆ける。夢のように地上は遠ざかって、日暮れた街の姿をあらわにした。

   8

 天には|凍《こご》えた満天の星。地には都市の輪郭を作る一面の星。
 獣は海上に踊り出た。
 宙を泳ぐように|翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。
 なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。
 暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。
 獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。
 そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。
 陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。
「あの……追ってきてる?」
 半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。
「はい。追っ手の妖魔が多数」
 女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は|安堵《あんど》する。
「あなたたちは……何者?」
「我々はタイホの|僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」
「……うん」
 陽子はしぶしぶ前を向く。
 視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。
「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」
 その声に陽子は|怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。
「……敵が来そう?」
「居ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」
「……じゃあ?」
「万が一にも剣や|鞘《さや》をなくされませんよう」
「剣と、鞘?」
「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております|珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」
 陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り|紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。
「これ?」
「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」
 言われるままに手のなかに握りこんでみると、|掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。
「……暖かい」
「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の|宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」
 うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。
 まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。
 さらに下降すれば、海面は|沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。
 獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。
「あたし、泳げない!」
 白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。
「大事ございません」
「でも!」
 それ以上を言うひまはなかった。海面が前に|塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。

 光の中に飛び込んだ瞬間、叩きつけられる衝撃を覚悟したが、そんなものはまったくなかった。
 逆巻いた波の|飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた|瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。
 ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。
 頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。
「なに……これ」
 もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。
 頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。
 |煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。
 突然に耳に音が戻る。鈍い光を|弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは|滑《すべ》り出ていたのだ。
 海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。
 月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。
 波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。
 獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。
「ヒョウキ」
 |堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。
 光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。
 天も地もない闇のなかに薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。
 その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。
 陽子は呆然とした。
「あれは……」
 あれは。この風景は──。
 陽子は悲鳴をあげた。
「やだ! 逃げてーっ」
 女の手があやすように陽子をゆすった。
「そうしております。どうぞご安じくださいまし」
「いや!」
 女は陽子の身体を伏せさせる。
「しっかりヒョウキにつかまって」
「あなたは?」
「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」
 陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。
 そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の|縞《しま》がある背が、あっという|間《ま》にのまれていった。

 陽子の周囲にはすでに闇よりほかになにひとつ見えない。風が巻いて、陽子を揺さぶり始めた。
「ヒ……ヒョウキ、さん」
 陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。
「なにか」
「逃げられそう?」
「さて。どうですか」
 ごく緊張感のない声が答えてから、
「上! ご注意を!」
「え?」
 ふり|仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。
「ゴユウが」
 しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。
「なに? どうしたの!?」
 ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。
「剣を。──伏兵が。はさまれました」
「そんな!」
 叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。
「いや! 逃げてーっ!!」
 剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。
 獣に|跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが|這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。
 腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を|鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。
「……いや。やめて!」
 右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを|毟《むし》るようにしてつかむ。
「お願い、やめて!!」
 近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。
 ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が|斬《き》り捨てた。
「いや!」
 陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。
 生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に|殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。
 剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。
「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」
「いやっ!!」
 がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。
 前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。
 ヒョウキが強く左に跳ぶ。
 突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。
 なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。
 悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。
 驚いて見開いた目に、突進してくる|猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を|斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の|咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。
 それを最後に五感までもが闇のなかに墜落していった。
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回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

  6

「とめて!」
 陽子は馬車から身を乗り出して叫んだ。
「ケイキ! 助けて!!」
 隣の男が陽子の肩をつかんで押さえつけた。
「こら」
 陽子は男をふりかえる。
「馬車をとめて。知り合いがいるんです!」
「おまえの知り合いはここにはいねえよ」
「いたの! ケイキだった! お願い、とめて!!」
 馬の歩みが落ちた。
 ふりかえると、すでに金色の光は遠い。それでもそこにはたしかに人がいること、その人のすぐ横にもうひとり誰かがいること、その人物が頭から死神のように暗い色の布をかぶっていること、なにかの獣を幾頭かつれていることは見てとれた。
「ケイキ!!」
 叫んで身を乗り出す陽子の肩を男が強く引いた。思わず|尻餅《しりもち》をつき、あらためて顔をあげたときには、もう金色の光は見えなかった。いたはずの場所はまだ見える。そこにいた人物のほうが姿を消してしまってた。
「ケイキ!?」
「いい加減にしろ!」
 男が乱暴に陽子を引きずる。
「どこに人がいる。そんなことでだまそうたって、そうはいかねえぞ」
「いたの!」
「やかましい!」
 怒鳴られて陽子は身を縮める。動きつづける馬車の上からあきらめ悪く視線だけを投げた。やはりそこには、なんの姿もなかった。
 ──なぜ。
 ケイキだと思った瞬間聞こえた声は、きっとジョウユウのものだろう。あれはケイキに間違いない。獣の姿も見えた。ケイキたちはぶじだったのだ。
 ──だったらなぜ、助けてくれない?
 混乱した思いでただ視線をさまよわせる。どこかにもう一度、あの金の光が見えないか。
 そのときだった。視線を向けていた林のなかから声が聞こえたのだ。
 陽子は声のしたほうを見やり、ついでに隣にいる男が顔をそちらへ向けた。
 赤ん坊の泣き声だった。どこかで子供がとぎれとぎれに泣いているのが聞こえる。
「おい……?」
 泣き声のする方向を指差して男が声をかけたのは、それまで無言で馬車を|御《ぎょ》していた男だった。御者はちらりと陽子たちを見やってから、|手綱《たづな》を繰り出す。馬の足が速まった。
「赤ん坊が」
「構うな。山の中で赤ん坊の声がしたら、近づかないほうがいい」
「しかし、な」
 赤ん坊は火がついたように泣きはじめた。人がみすごすことを許さないような、切迫した声だった。声のありかを探すように馬車の縁から身を乗り出した男に、御者は強い声をかける。
「無視しろ。山の中で人を|喰《く》らう|妖魔《ようま》は、赤ん坊の声で鳴くそうだ」
 妖魔、の言葉に陽子は背筋を緊張させた。
 男は納得のいかない顔で、林と御者を見くらべている。御者は硬い顔でさらに手綱を打った。両側の林のせいでかげった坂道を、馬車は大きく揺れながら走りはじめる。
 一瞬だけ、ケイキが自分を助けるためになにかをしているのだろうか、と思ったが、ジョウユウの感触が濃厚で、恐ろしく全身が緊張している。助けだと単純に喜ぶわけには、とうていいかなかった。
 おああ、と赤ん坊の声がすぐ間近から聞こえた。それは明らかに近づいてきている。その声に|応《こた》えるようにべつの方向から泣き声がする。あちらからもこちらからも泣き声が聞こえて、馬車の周囲を取りまくように張りつめた声が坂道に響きあった。
「ひ……」
 男は身を硬直させて周囲を見回す。疾走する馬車の速度を意に介さないように、声はただ近づいてくる。赤ん坊ではない。子供ではありえない。陽子は身をよじった。鼓動が跳ねあがる。身内に何かが充満する。それはジョウユウの気配だけではなく、|潮騒《しおさい》のような音をたてる何かだ。
「縄をほどいて!」
 男は目を見開いたまま陽子を見やり、首を横にふった。
「襲われたら身を守る方法はあるの?」
 これにも|狼狽《ろうばい》したように頭をふるだけ。
「縄をほどいて。その剣をあたしにください」
 馬車を取り囲んだ声は、徐々にその半径をせばめている。馬は疾走する。車は乗り手をふり落とすように何度も跳ねた。
「早く!!」
 陽子が怒鳴ると、男はなにかに突かれたように身動きした。その瞬間だった。ひときわ大きな衝撃が突きあげてきた。
 てひどく地面に投げ出されて、陽子はようやく馬車が転倒したことに気がついた。つまった息とともに、軽い吐き気がこみあげるのをやり過ごしてから見ると、馬車も車もきれいに横倒しになってしまっていた。
 間近に投げ出された男が頭をふりながら身をおこす。それでも彼はしっかり布の袋を抱きしめていた。赤ん坊の声は林の縁から聞こえた。
「お願い! 縄をほどいて!!」
 叫ぶやいなや、馬が悲痛な声をあげるのが聞こえた。あわてて目をやると馬の一頭に黒い毛並みの大きな犬が襲いかかっていた。犬はおそろしく|顎《あご》が発達している。口を開けると顔面がふたつに裂けたように見えた。その|鼻面《はなづら》は白い。それが一瞬のうちに赤く染まった。男たちが悲鳴をあげる。
「これをほどいて剣をよこして!」
 男にはもう、陽子の声は聞こえていないようだった。あわてふためいて立ちあがり、しっかり袋を抱いたまま片手で宙を|掻《か》くようにして坂を下へ走っていく。
 その背に向かって林の中から数匹の黒い獣が飛び出してきた。
 男の姿と黒い獣の姿が交錯する。獣がちに降り立ち、あとには立ちすくんだ男が残された。
 ──いや、たちすくんでいるのではない。男の身体には、すでに首と片腕がなかった。一瞬の後にその身体が倒れる。放水のように噴き出した鮮血がくっきりと軌跡を描いて、あたり一面に赤く水滴を降らせた。陽子の背後で馬が高く|嘶《いなな》いた。
 陽子は馬車に身を寄せる。その肩になにかが触れて、驚いてふりかえると御者だった。
 彼は陽子のうしろ手にくくられた手をつかむ。小刀をにぎっているのが見えた。
「逃げな。今なら奴らのそばをすりぬけられる」
 言って御者は立ちあがる。陽子を拘束していた|戒《いまし》めがゆるんだ。
 御者は陽子を引き立て、坂の下へ向かって押し出した。坂の上には馬に群がった犬がいる。坂の下には倒れた男に群がった犬。身体の上に小山を作った黒い獣を、すこし離れた場所から首だけが見つめていた。
 この降って湧いたような|殺戮《さつりく》に身をすくめる陽子には関係なく、戒めをとかれた身体は戦闘の準備をする。手近の石をかき集めるようにして拾いあげた。
 ──そんな小石でなにができるの。
 陽子の身体は立ちあがる。坂の下に向かった。がつがつといやな音をさせている毛皮の群れから、その音に調子をあわせて揺れる男の足が見えていた。目が毛皮の数を数える。一、二、……、五、六。
 陽子は群れに近づく。あたりは赤ん坊の声がやんで、今は骨肉をかむ音だけが満ちていた。
 ふいに犬の一頭が顔をあげた。白いはずの鼻面は真っ赤に染まっている。その犬が声をかけでもしたように、次々とほかの犬が頭をあげた。
 ──どうするの。
 陽子の身体は小走りに駆け出した。最初に飛びかかってきた犬の鼻面に小石が命中する。むろん、そんなもので倒せるものでもない。獣の足を一瞬のあいだ、とめることしかできなかった。
 ──むだよ。
 群れが退いたあとには、すでに人の原形をとどめていない男の身体があった。
 ──ここで、死ぬんだ。
 喰われるんだ、あんなふうに。あの|顎《あご》と|牙《きば》で|咬《か》み裂かれて、肉のかたまりになり、その肉さえ喰いつくされてしまう。
 そんな絶望的な思いにかられながらも、小石で犬を散らして陽子は駆ける。動き出したジョウユウをとめる方法はない。できるだけジョウユウのさまたげにならないよう意識をこらし、せめて痛みを感じるひまがないように祈るしかなかった。
 駆ける陽子の足に腕に背中に、鈍い衝撃と鈍い痛みが次々に生じる。
 救援を求めてとっさに背後をふりかえった陽子の目に、小刀をやみくもにふりまわしながら走り出した男の姿が見えた。御者は陽子とは反対側の林に向かって駆けこむ。下草をかきわけたところで、なにかが彼の体を木陰に引きずりこんだ。
 どうしてあんな方向へ、と疑問がわいて、瞬時に自分が|囮《おとり》に使われたのだと悟った。逃げだした陽子が襲われているあいだに、自分は林のなかに逃げこむつもりだったのにちがいない。男のもくろみは失敗に終わった。彼は襲われ、そうして陽子もぶじでいられるとは思えない。
 手のなかの石が尽きた。すでに人の形をとどめていない男の死体までは三歩の距離。
 空の手が右から襲ってきた鼻面をうちすえる。足首にがっきとつかまれる感触を感じてすくいあげられるのを、前のめりに逃げる。背中に重い衝撃があたったのをさらに前のめりになってかわし、頭から男の死体に突っこんだ。
 ──いやだ。
 悲鳴は出なかった。心のどこかがひどく|麻痺《まひ》していて、ごく淡い|嫌悪《けんお》が浮かんだだけだった。
 体が起きあがり、背後に向かって身構える。このばけものに|睨《にら》み合いが通用するとは思えなかったが、意外にも犬は頭を低くたれて間合いをはかっている。だからといって、いつまでもそれが続くはずもない。
 陽子は右手を死体にかけて、伏せた男の肉塊の下を探った。
 この男が一瞬のうちに死体になった姿が目によみがえる。時間がない。連中が決心すれば、一瞬で決着がついてしまう。
 探る指先に、硬いものが触れた。
 陽子には、手のなかに|柄《つか》が飛びこんできたような気がした。
 ──あ……ああ。
 命綱をつかんだ。|鞘《さや》ごと男の肉塊の下から引き抜こうとしたが、どうしたわけか鞘がなかばまで現れたところで動かない。剣と鞘とは離してはならないといわれた。しかし。
 陽子は迷い、迷うひまさえないことに思い至り、思いきって刀身だけを引き抜いた。切っ先で|珠《たま》を結んだ|紐《ひも》を切って、珠を手のなかににぎりこむ。にぎりこむと同時に、犬が動いた。
 それを視野にとらえるやいなや、右手が動いて白刃が走る。
「ぁあ──ああぁ!!」
 言葉にならない叫びが|喉《のど》を突いた。
 襲ってきた犬を左右に|斬《き》り捨てて、開いた|間隙《かんげき》に飛びこむようにして走り出す。なおも追いすがってくる獣を斬り退け、全力でその場を駆け去った。

   7

 陽子は太い幹に身体をあずけて座りこんだ。
 あの坂を下り、途中から山に分け入って、足が動かなくなった場所がここだった。
 汗をぬぐうつもりで腕をあげると、制服は血で重く濡れている。顔をしかめて上着を脱いだ。脱いだセーラー服で剣をぬぐう。ぬぐった切っ先を目の前にかざしてみた。
 いつだったか日本史の授業で、日本刀で切れるのは数人が限界、と聞いたことがある。刃こぼれと血油で使いものにならなくなる、と。さぞかし|傷《いた》んでいるだろうと思ったのに、かるく布でぬぐっただけで曇りひとつない。
「……不思議」
 陽子にしか抜けないことといい、妙な剣だと思った。最初に持ったときには重いような気がしたが、|鞘《さや》を払えばひどく手に軽い。
 陽子はすでに鋭利な|煌《きらめ》きを取り戻している刀身を脱いだ服でくるむ。それを腕のなかに抱き込んで、しばらく息を整えていた。
 鞘をあの場に残してしまった。取りにもどるべきだろうか。
 剣と鞘とは離してはならないと、そういわれたが、それは鞘にもなにかの意味があるということなのだろうか。それとも、鞘には|珠《たま》がついていたからだろうか。
 汗が引くと制服の下に着ていたTシャツだけでは寒かったが、もう一度汚れた上着に|袖《そで》を通す気にはなれない。落ちついてみると全身が痛んだ。腕も足も傷だらけだった。
 Tシャツの袖には牙が通った|痕《あと》がいくつもある。下から血がにじんで白い色を|斑《まだら》に染めていた。スカートは裂けてしまっているし、その下の足にも無数の傷ができている。傷の大半からまだ血が出ていたが、男を一瞬のうちに殺した牙がつけた傷にしては、おそろしく軽傷だといってよかった。
 おかしい、と思う。どう考えてもこんなに軽傷ですむはずがない。そういえば職員室のガラスが割れたときにも、周りの教師たちが大怪我をした中で、陽子だけは無傷だった。獣の背から落ちたときも、そこが空の上だったというのに|擦《す》り傷しかなかった。
 変だとは思うがしかし、姿形までが変わってしまったことを思うと取り立てて悩むほどのことでもないのかもしれない。
 陽子はなんとなく息をつく。ためいきに似た呼吸をしてから、自分の左手が堅く|拳《こぶし》をにぎったままなのに気がついた。|強《こわ》ばるてのひらを開くと、青い珠が転がり出てくる。あらためてにぎり直すと、そこから痛みが引いていくのがわかった。

 珠をにぎってしばらくうとうとし、目覚めてみるとあちこちの傷はすでに乾いていた。
「……不思議」
 しくしくと身体を|蝕《むしば》むような痛みは消えている。疲労が薄らいでいるのを感じる。たしかにこれは、なくしてはならないものだ。陽子にはこのうえもなくありがたい。
 おそらくは、これが結びつけられていたから、|鞘《さや》をなくすなといわれたのだろう。
 制服からスカーフを外し、剣を使って細く裂いた。それを堅くねじって珠にあいた穴に通すと、首にかけておくのにちょうど良い長さだった。
 珠を首にかけて、陽子は周囲を見わたす。斜面に続く林の中だった。すでに|陽《ひ》はかたむいて、枝の下には薄闇が漂いはじめている。方角はわからない。これからどうしたらいいのかも、わからなかった。
「……ジョウユウ」
 背後に意識を向けて問いかけてみたが、返答はなかった。
「お願いだから、なにか言ってよ」
 やはり返答はない。
「これから、どうしたらいいの? どこへ行ってなにをすればいいわけ?」
 どこからも声はしなかった。いないはずはないのに、自分の身体に意識をこらしてもそれがいる感触は見いだせなかった。かすかにかさかさと葉ずれの音がするのが、かえって静かな気がする。
「あたし、右も左もわからないのよ」
 陽子は不毛なひとりごとを続ける。
「あたしはこっちのこと、なにひとつわからないんだよ。それであたしにどうしろって言うわけ。人のいるところに出れば、またつかまるんでしょ? つかまったら殺されるんじゃない。誰にも会わないように逃げまわって、それでなんとかなるの? どっかにドアでもあって、それを探して開けたら、家に帰れるわけ? そうじゃないでしょう」
 なにかをしなければならないのに、なにをしたらいいのかわからない。ここに座っていてもなにひとつ救われないとわかっているのに、どこへ行ったらいいのかわからない。
 林の中は急速にたそがれていこうとしていた。あかりを|灯《とも》す方法も、今夜の寝床のあてもなかった。食べるものも飲むものもない。人のいる場所は危険で近づけず、人のいない場所をあてもなくうろつくのは怖い。
「あたしにどうしろっていうの。せめて、なにをどうすればいいのか、それだけでも教えてよ!」
 やはり返答はなかった。
「いったいなにがどうなってるの。ケイキたちはどうしたの? さっきいたのはケイキでしょう? どうして姿を消したの。どうして助けてくれなかったの。ねぇ。どうして!?」
 かさこそと葉ずれの音だけがする。
「お願いだから、なにかしゃべってよ……」
 点々と涙がこぼれた。
「……帰りたい」
 もといた世界を好きだったとは言わない。それでも離れてみれば、ただなつかしいばかりで涙が出てくる。もう一度帰れるならなんでもする。帰ったら二度と離れない。
「家に……帰りたいよぉ」
 子供のように泣きじゃくりながらふと思う。
 陽子はなんとか逃げだすことができた。県庁に送られることも、あの獣に喰われることもなかった。こうして生きて自分の|膝《ひざ》を抱いていられる。
 それはしかし、ほんとうに幸いなことだったのだろうか?
 ──痛みなら……。
 浮上してきた考えを、頭をふってむりにも散らす。それを考えるのは怖かった。きっと今はどんな言葉よりも説得力がある。陽子はしっかりと膝を抱きしめた。
 突然、声が聞こえたのはそのときだった。
 妙にかんだかい老人のような声は、陽子が強いて考えないようにした思考を笑いを含んで言ってのけた。
「痛みなら、一瞬で終わったのにナァ」

 陽子は周囲を見わたした。すでに右手は剣の柄をにぎりしめている。林の中はすっかり夜の顔をしていた。かろうじて幹や下草の高さがわかるていどのあかりしかない。
 そのなかにボンヤリとした光がある。陽子の座った場所から二メートルほどの地点。下草の中から|薄青《うすあお》い|燐光《りんこう》を放つものがのぞいている。
 それを見すえて陽子はかすかに息を飲んだ。
 |鬼火《おにび》のように光る毛並みを持った、一匹の|猿《さる》だった。丈の高い雑草のあいだから首だけを出して、陽子のほうを見ながらあざ笑うように|歯茎《はぐき》をむき出しにしている。
 猿はきゃらきゃらと耳に刺さる音で笑った。
「喰われてしまえば、一瞬だったのにサァ」
 陽子は巻きつけた制服のあいだから剣を抜き出す。
「……あなた、なに?」
 猿はさらに高く笑う。
「オレはオレさァ。バカな娘だよ、逃げるなんてヨォ。あのまま喰われてれば、つらい思いをせずにすんだのになァ」
 陽子は剣を構える。
「何者、なの?」
「オレはオレだってば。あんたの味方さァ。あんたにいいことを教えてやろうと思ってな」
「・・・・・いいこと?」
 猿の言葉は|鵜《う》のみにできない。ジョウユウが緊張する様子を見せないので敵ではないのだろうが、怪しげな見かけからしても、とうていまっとうな生き物とは思えなかった。
「おまえ、帰れねえよ」
 あっさり言われて陽子は猿をにらみつけた。
「黙んなさいよ」
「帰れねえよ。ぜったいムリだ。そもそも帰る方法なんか、ねえのさ。──もっといいことを教えてやろうか?」
「聞きたくない」
「教えてやるってばさ。おまえ、だまされたんだよォ」
 きゃらきゃらと猿は大笑いした。
「だま……された?」
 水を浴びせられた気がした。
「バカな娘だよ、ナァ? おまえは、そもそも|罠《わな》にはめられたのサァ」
 陽子は息を飲んだ。
 ──罠。
 ケイキの? ケイキの!?
 柄をにぎる手が震えたが、否定する言葉を思いつけなかった。
「思い当たるフシがあるだろう? おまえは、こっちにつれて来られた。二度とあっちに帰さない罠だったのサァ」
 かんだかい声が耳に突き刺さった。
「やめて!」
 無我夢中で剣を払っていた。鈍い乾いた音がして草の先が舞う。陽子が自力でやみくもにふりまわした切っ先は猿に届かなかった。
「そうやって耳を|塞《ふさ》いでも、事実は変わらないよォ。そんなもんを|後生大事《ごしょうだいじ》にふりまわしているからさァ、死にぞこなっちまうのサァ」
「やめてっ!」
「せっかくいいもん持ってんだから、もっとマシなことに使いなよォ。──それでちょいと自分の首を|刎《は》ねるのさァ」
 きゃらきゃらと猿は天を仰いで大笑いをした。
「黙れぇっ!!」
 手を伸ばして払った先に猿はいない。すこしばかり遠ざかって、やはり首だけがのぞいていた。
「いいのかい? オレを|斬《き》っちまってサァ。オレがいなかったら、おまえ、口をきく相手もいないんだぜ」
 はっ、と陽子は目を見開いた。
「オレがなにか悪さをしたかい。こうして親切にも、おまえに声をかけてやってんじゃないかァ」
 陽子は歯を食いしばる。堅く目を閉じた。
「かわいそうになァ」こんなところにつれて来られて」
「……どうすればいいの」
「どうしようもないのさ」
「……死ぬのはいや」
 それはあまりに恐ろしい。
「勝手にするがいいさ。オレはおまえに死んでほしいわけじゃないからさァ」
「どこへ行けばいいの?」
「どこへ行っても同じだ。人間からも妖魔からも追われるんだからヨォ」
 陽子は顔をおおう。また涙がこぼれた。
「泣けるうちに泣いておきな。そのうち涙なんて|涸《か》れちまうからサァ」
 きゃらきゃらと声高く猿は笑った。笑い声が遠ざかっていくのを耳にして、陽子は顔をあげた。
「──待って!」
 おいて行かれたくない。たとえ得体のしれない相手でも、こんなところにひとりで話す相手もなしに途方にくれているよりはずっといい。
 しかし、顔をあげた先に猿の姿は見えなかった。まっくらになった闇の中に高笑いだけが遠ざかり遠ざかりしつつ、いつまでも響いていた。

   8

 ──痛みなら、一瞬ですむ。
 その言葉は胸のなかに重く沈んで、どうしても忘れることができなかった。
 陽子は何度も膝の上にのせた剣に眼をやる。あるかなしかの光を|昏《くら》く|弾《はじ》いて、冷たく|硬《かた》いものが横たわっている。
 ──痛みなら……。
 思考がそこで立ち止まる。頭をふって払い落としても、いつの間にかそこに戻っている。
 戻ることも進むこともできずに、陽子はただ刀身をながめる。
 やがてそれがかすかに光を放ち始めて、陽子は目を見開いた。
 ゆっくりと、夜目にも白く刀身の形が浮かびあがる。手にとってかざしてみる。自らが放った光で鋭利なきらめきを作ったその剣は、両刃のさしわたしが中指の長さほどもある。その刃にふしぎな色が|躍《おど》って、陽子は目をこらした。
 なにかが映っているのだと悟り、自分の顔だろうと納得しかけ、そうしてそうではないのに気づいた。刃になにかが映っていることはまちがいないが、それは陽子の顔などではない。刀身を近づけてよくよく見ると、人影だった。誰かが動いている姿が映っている。
 高く水の音がした。|洞窟《どうくつ》の中で水滴が水面を叩くような音には聞き覚えがあった。刃に映った人影は、目をこらすうちにどんどん鮮明になってくる。波紋を描いた水面が水の音とともに落ちついてしっかりと像をむすぶような、そんなふうに見えた。
 人だった。女で、どこか部屋の中を動いている。
 そこまで見て取って、陽子の目に涙が浮かんだ。
「……お母さん」
 そこに映っているのは母親で、その部屋は陽子の部屋にまちがいなかった。
 白地にアイボリーの模様が入った壁紙、小花模様のカーテン、パッチワークのベッドカバー、棚の上のぬいぐるみ、机の上の『長い冬』。
 母親はうろうろと部屋の中を歩いては、そのあたりのものに触れる。本を手に取り、ページをかるくめくり、机の引出しを開けて中をのぞきこみ、かと思うとベッドに腰をおろしてためいきをつく。
(お母さん……)
 母親はどことなくやつれたように見えた。沈んだ顔色に陽子は胸が痛くなる。
 きっと陽子を心配している。あちらを|発《た》って、すでに二日がたった。一度だって夕飯の用意に遅れたこともなければ、行く先を告げずに出かけたこともないのに。
 ひととおりそのあたりのものをいじった母親は、やがてベッドに座りこんだ。壁際にならべたぬいぐるみを取ってかるく叩く。そうしてそれをなでながら、声を殺して泣きはじめた。
「お母さん!」
 まるで目の前にいるようで、陽子は思わず叫んだ。
 叫んだとたんに風景がとぎれる。ふと我に返ったように目の焦点を合わせると、そこには一振りの剣。すでに輝きをなくして、刃に影は見えない。水の音もやんでいた。
「──なんだったの」
 今のはいったいなんだったのだろう。まるで現実のようにリアルに見えた。
 陽子はもう一度剣を目の前にかざす。じっと刃に目をこらしても、もう影は見えなかった。水の音も聞こえない。……水滴の音。
 陽子はふと思い出す。
 あれは夢の中でも聞いた音だった。ひと月続いたあの夢の中、かならず高い水滴の音がしていた。あの夢は現実になった。──では、今見た幻影は?
 考えてもわからなくて、陽子は首をふる。母親の姿を見てしまえば、ただもう帰りたくてたまらなかった。
 陽子は猿の消えた方角を見やった。
 帰れない、|罠《わな》だ、と認めればすべての希望が失われてしまう。
 罠ではない。きっとケイキが助けてくれなかったのだって、陽子を見捨てたからではない。きっとなにか事情があったのにちがいない。
 ──いや、そもそもはっきり顔を見たわけではない。あれがケイキだったというのは、陽子の勘違いだったかもしれない。
「きっと、そうだ」
 ケイキに似ていたが、あれはケイキではなかった。ここにはさまざまな色の髪を持った人間がいる。金髪でケイキだと思ったが、しっかり顔を確認したわけではない。そう思ってみるとあの人影は、ケイキよりもすこし小さかったような気がした。
「そうよ、そうなんだわ」
 あれはケイキじゃない。ケイキが陽子を見捨てるなんてことはありえない。だからケイキを探しさえすれば、きっと帰れる。
 |堅《かた》く堅く|柄《つか》をにぎりしためとき、ふいに背筋をぞろりとしたものが走った。
「ジョウユウ?」
 体が勝手に起きあがる。剣から上着をほどいて身構えようとする。
「……なに?」
 返事がないことは承知で問いかけながら、陽子は周囲に目を配った。鼓動が速まる。ざわ、と下草をかき分ける音が正面からした。
 ──なにかが来る。
 ついで、聞こえたのはうなり声だった。犬がほかを|威嚇《いかく》するときに出す音。
 ──あの連中。
 馬車を襲った連中だろうか?
 なんにしても、こう暗くては戦うのには不利だ。陽子はそう考えて背後に目をやる。どこかすこしでもあかるいところへ行きたい、と足をかるく踏み出すと、ぞろりとした感触がそれを助けた。陽子は駆け出す。同時に背後で、なにか大きなものが草むらをかき分けて突進してくる音が聞こえた。
 陽子は暗い林の中を駆ける。追っ手の足がじゅうぶんに速いようなのに追いつかれることがなかったのは、どうやらあまり機敏な相手ではなかったからのようだった。
 |幹《みき》から幹へ伝うようにして走ると左右にふりまわされる音がする。ときおり幹にぶつかるらしい音さえ聞こえた。
 光の見える方向に走って、陽子は林から飛び出した。
 山の中腹の木立が切れてテラスのように張りだしたところだった。白々とした月光に照らされて、眼下になだらかな山の連なりが一望できる。平野でなかったことに舌打ちしながら背後に向かって身構える。盛大な音をたてて大きな影が飛び出してきた。
 それは牛に似ていた。長い毛並みをまとっていて、それを呼吸といっしょに逆立てる。犬のような声で低く|唸《うな》った。
 驚きも恐怖も感じなかった。鼓動は速いし、息も喉を|灼《や》くようだが、それでもすでに|異形《いぎょう》のものに対する|畏《おそれ》が薄れていた。ジョウユウの気配に注意を向ける。身内で|潮騒《しおさい》に似た音がする。これ以上返り血を浴びるのはいやだな、とそんなことをのんきに考えた。
 いつの間にか月が高い。|冴《さ》え冴えと白い光を浴びて刃がさらに白かった。
 その白刃が夜目には黒く染まって、三撃で大きなバケモノは横倒しになった。歩み寄ってとどめを刺すあいだに、周囲の林の暗がりのなかに、赤く光る目が集まっているのを見てとった。

 あかるい場所を選んで歩きながら、幾度となく襲ってくる妖魔と戦わなくてはならなかった。
 長い夜のあいだに何度も襲撃を受けて、バケモノはやはり夜に出没するものなのだと悟る。ひっきりなしというわけではなかったが、珠の力を借りても疲労はたまっていく。|人気《ひとけ》のない山道に夜明けが訪れたときには、剣を血に突き刺し、杖のかわりにしても歩くことがつらかった。
 あかるくなりはじめると同時に襲撃は間遠になり、朝の光が射したころには完全に止んだ。そのまま道端で泥のように眠ってしまいたかったが、人に見つかっては危険だ。なえた手足を引きずるようにして動かし、道のわきの林のなかに|這《は》いこんだ。山道からさほど遠くもなく近くもない場所にやわからな茂みを見つけて、そこで剣を抱いて墜落するように眠りについた。
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回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海



 狒狒は屋根から屋上へ、屋上から電柱へ、驚異的な跳躍を繰り返して風のように駆けた。
 陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。
 狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。
「ごぶじか」
 聞かれて陽子はうなずく。|眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。
 足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。
「お泣きになっている場合ではない」
 陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。
 陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。
「……怖かった」
 つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。
「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている|猶予《ゆうよ》はないのですよ」
「追って……くる?」
 驚いて見あげると、男はうなずく。
「あなたがお|斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」
「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」
「コチョウ」
「コチョウって?」
 男は|軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。
「あれのことです」
 陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。
「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」
 短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。
 こんな|得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に|鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。
「──もうよろしいか?」
 とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。
「よろしい、って」
「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」
「出発ってどこへ?」
「あちらへ」
 あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。
 どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。
「……ちょっと待ってください」
「そんなひまはない」
 男はいらだった口調で言う。
「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」
「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」
「まっすぐに行けば、片道に一日」
「そんな、困ります」
「なにを」
 とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。
 片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を|空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。
「……困ります」
 なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。
 泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。
 ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。
「タイホ」
 男は空を見あげる。
「コチョウか」
「はい」
 ぞっ、と陽子の背筋を|悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。
「……助けてください」
 男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。
「命がおしければ、これを」
「でもあたし、こんなの使えません」
「これはあなたにしか使えない」
「あたしには、むりです!」
「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」
 呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。
 岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。
 するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。
「……なに!?」
 小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。
「いや!」
 逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。
 逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の|衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。
「いや! とって!」
 つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。
「やめて! いや!!」
「聞き分けのない。おちつかれよ」
「いや! いやだってば!!」
 冷えた|糊《のり》のようなものが背中から腕を|這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。
 膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。
「なに? なんなの!?」
「ジョウユウが|憑依《ひょうい》しただけです」
「憑依って」
 陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。
「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」
 そう冷淡に言って男は剣をさしだす。
「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」
「あれ……だけ?」
 だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。
「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」
 男は答えずに空を見あげる。
「来た」

   7

 陽子がふりかえるより先に、背後から奇声が聞こえた。
 声のほうを見あげる陽子の手のなかに、剣が押しこまれる。それにはかまわず陽子はふりかえる。背後の上空に翼を広げた巨鳥の姿が降下してくるのが見えた。
 悲鳴をあげた。逃げられない、ととっさに思った。
 逃げるよりも落下してくる鳥のほうが速い。剣なんて使えない。あんな、ばけものに|対峙《たいじ》する勇気なんてない。身を守る方法がない。
 太い脚の|鉤爪《かぎづめ》が視野いっぱいに広がった。目を閉じたかったが、できなかった。
 目の前を白い光が走って、堅い激しい音がした。岩と岩とを打ちつけたような音をたてて、|斧《おの》のように重量感のある鉤爪が顔のすぐ前で止まった。
 とめたのは剣、剣を|鞘《さや》からなかばまで引き抜いて目の前にかかげたのは、ほかでもない自分の両腕だった。
 なに? と自問するひまもなかった。
 陽子の腕が残りの刀身を引き抜いて、抜きざまコチョウの脚を払う。
 赤い血が散って、生暖かな温度をともなって陽子の顔に噴きつけた。
 陽子は|呆然《ぼうぜん》としているしかなかった。
 断じて剣を使っているのは陽子ではない。手足が勝手に動いて、|狼狽《ろうばい》したように浮上するコチョウの片脚を|斬《き》って落とす。
 また鮮血が|飛沫《しぶ》いて顔を汚した。ぬるいものが|顎《あご》から首をつたって、衿のなかに入ってくる。その感触に陽子は震えた。
 陽子の足は|血飛沫《ちしぶき》をかわすようにその場をさがった。
 宙へ逃げ出した巨鳥は、すぐさま態勢を立て直して突っ込んできた。
 その翼に斬りつけながら、陽子は自分の体が動くたび、動きにしたがって冷えたぞろぞろとする感触が身体をつたうのを感じる。
 ──あれだ。あの、ジョウユウとかいうばけもの。
 翼を傷つけられた巨鳥が、奇声をあげながら地に突っ込む。
 それを視野にとらえながら、陽子は|悟《さと》る。
 あのジョウユウとかいうばけものが自分の手足を動かしているのだ。
 |身悶《みもだ》えするように羽ばたいた巨鳥は、地を巨大な両翼で叩くようにして陽子に向かってきた。
 陽子の身体はよどみなく動いて、身をかわしざま、その胴を深く斬って捨てる。
 生暖かい|血糊《ちのり》を頭からかぶって、手には肉と骨を断つおぞけのするような感触が残った。
「いや」
 口は陽子の意思によってつぶやいたが、身体は動きをやめなかった。
 血糊が身体をつたうのもかまわず、地面に落ちてあがくコチョウの翼に深く剣を突き立てる。刺し貫いた剣をそのまま引いて大きな翼を斬り裂いた。
 そのまま陽子の身体はきびすを返して、奇声をあげ血泡を噴いてのたうつ首に向かった。
「いや。……やめて」
 巨鳥は転がるようにして傷ついた翼を大きく打ちふるっていたが、翼はもはやその体重を浮上させることができなかった。
 陽子の腕は、音をたてて宙を|扇《あお》ぐ翼を避けて胴を刺し貫いた。とっさに目をそむけたが、ぶよぶよとした抵抗を斬り裂く感触が手に残る。
 その剣を抜きざま振り上げ、|躊躇《ちゅうちょ》なくその首にふりおろした。首の骨に当たって剣が止まる。
 あらためて|粘《ねば》る血肉から引き抜いてふりあげ、赤く染まった首を今度は完全に|斬《き》り落とし、そのまだ|痙攣《けいれん》している翼で剣をぬぐったところで手足の勝手な動きが止まった。
 陽子は悲鳴をあげて、やっと剣を投げ捨てた。

 突堤の端から身を乗り出して陽子は吐いた。
 泣きじゃくりながら海中投げこまれたテトラポッドをつたって水のなかに飛びこむ。今は二月もなかばで、海の水は身を切るほど冷たいことは、まったく念頭に浮かばなかった。とにかく、頭からかぶった血糊を洗い落としてしまいたかった。
 無我夢中で水をかぶって、それでようやく落ちつくと、水のなかから|這《は》いのぼることさえできないほど震えた。
 のろのろと這いのぼって突堤に戻り、そこであらためて声をあげて泣いた。恐怖と|嫌悪《けんお》で泣かずにはおれなかった。
 声が|嗄《か》れるほど泣いて、泣く気力さえつきたころにようやくケイキが声をかけてきた。
「もう、よろしいか」
「……なに……」
 ぼんやりと顔をあげると、ケイキの表情にはなんの色もない。
「これが追っ手のすべてではありません。じきに次の追っ手が来る」
「……それで?」
 神経のどこかが|麻痺《まひ》したようだった。追っ手という言葉に恐怖を感じず、男をまっこうからにらむことにも|気後《きおく》れを感じなかった。
「追っ手は手ごわい。お守り申しあげるには、私ときていただくほかはありません」
 陽子はそっけなく返した。
「いや」
「分別のないことをおっしゃる」
「もうたくさん。あたし、家に帰る」
「家に帰ったからといって、決して安全ではない」
「もういいの、どうだって。寒いから家に帰る。……ばけものを取ってよ」
 男は陽子を見すえた。その目を陽子も淡々と見返す。
「あたしの身体に張りついてるんでしょ。ジョウユウとかいうばけものを取って」
「それは当面、あなたに必要なものだ」
「必要ない。あたし、家に帰るから」
「どこまでおろかな方か!」
 怒鳴られて、陽子は目を見開く。
「死んでいただいては困る。否とおっしゃるなら、むりにでもおいでいただきます」
「勝手なことばかり言わないで!」
 陽子は叫んだ。他人を怒鳴りつけたのは記憶にある限り、生まれてはじめてのことだったが、いったん叫んでしまうと、身内には奇妙な|高揚感《こうようかん》があった。
「あたしがなにをしたっていうのよ! あたしは、家に帰るの。こんなことに巻き込まれるのはもういや。どこへも行かない。家に帰る」
 突きつけられた剣を、陽子は乱暴に手で払いのけた。
「あたしは、家に帰りたいの! あなたに指図なんかさせない!」
「危険だと申しあげているのがおわかりにならないか!」
 陽子は薄く笑ってみせる。
「危険でもいい。あなたには関係ないでしょ」
「関係なくはない」
 男は低く吐き捨てて、陽子の背後に目線でうなずく。まえぶれもなく背後から二本の白い腕が伸びて、陽子の腕をつかんだ。
「なにをするのよ!?」
 ふりかえると、最初に剣を持って現れた鳥のような女だった。女は陽子の腕をつかんで無理やり剣を抱かせる。そのまま|羽交《はがい》いじめにするようにして抱きかかえた。
「放して!」
「あなたは私の|主《あるじ》です」
 言われて陽子はケイキを見あげる。
「主?」
「主命とあれば、どのようなことでもお聞きするが、あなたの命がかかっている。今はお許しいただきます。まずはお身の安全を|図《はか》り、事情をお聞きいただいて、その上でお帰りになりたいとおっしゃるのなら必ずお送り申しあげます」
「あたしがいつあなたの主人になったの? 勝手にやってきて、なんの説明もなしに勝手なことばかり。ふざけないでよ!」
「説明申しあげる猶予はありません」
 言ってケイキは、底冷えのする視線を陽子に向ける。
「私としてもこんな主人は願い下げだが、こればかりは私の意のままにならない。主人を見捨てることは許されない。ましてや無関係な人々をまきこむことは絶対に避けねば。否というなら力ずくでもおいでいただく。──カイコ。そのままお連れせよ」
「いや! 放して!」
 ケイキは陽子をふりかえらない。
「ハンキョ」
 呼ばれて赤い毛並みの獣が物陰から現れる。
「離れて飛べ。血の臭いが移る」
 次いでヒョウキ、と呼ばれて巨大な|豹《ひょう》に似た獣が姿を現した。女は陽子を羽交いじめにしたままその背を|跨《また》ぎ越す。
 ふうわりと、同じようにハンキョに|跨《またが》った男に陽子は訴えた。
「冗談じゃないわよ! 家に帰して! せめてあの、ばけものを取って!!」
「別に邪魔になるわけではないでしょう。ジョウユウが|憑《つ》いていたからといって、なにかを感じるわけではないはずだ」
「それでも気味が悪いの! 取りなさいよ!」
 ジョウユウ、と陽子のほうをふり向いて男は命じる。
「決して姿を現さず、ないものとしてふるまえ」
 これに対して返答はなかった。
 ケイキがうなずくと、陽子を乗せた獣が立ちあがった。とっさに自分を抱えた女の腕にしがみつくと同時に、獣は音もなく跳躍する。
「……いやだってば!」
 陽子の叫びを無視して獣は抵抗なく宙へ向かって駆けあがった。
 まるでゆるやかに宙を泳ぐようにして高度を増す。地面が眼下を遠ざかっていかなければ、動いていないのかと錯覚するほど獣の動きは穏やかだった。
 獣は宙を駆ける。夢のように地上は遠ざかって、日暮れた街の姿をあらわにした。

   8

 天には|凍《こご》えた満天の星。地には都市の輪郭を作る一面の星。
 獣は海上に踊り出た。
 宙を泳ぐように|翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。
 なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。
 暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。
 獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。
 そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。
 陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。
「あの……追ってきてる?」
 半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。
「はい。追っ手の妖魔が多数」
 女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は|安堵《あんど》する。
「あなたたちは……何者?」
「我々はタイホの|僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」
「……うん」
 陽子はしぶしぶ前を向く。
 視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。
「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」
 その声に陽子は|怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。
「……敵が来そう?」
「居ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」
「……じゃあ?」
「万が一にも剣や|鞘《さや》をなくされませんよう」
「剣と、鞘?」
「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております|珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」
 陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り|紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。
「これ?」
「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」
 言われるままに手のなかに握りこんでみると、|掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。
「……暖かい」
「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の|宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」
 うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。
 まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。
 さらに下降すれば、海面は|沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。
 獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。
「あたし、泳げない!」
 白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。
「大事ございません」
「でも!」
 それ以上を言うひまはなかった。海面が前に|塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。

 光の中に飛び込んだ瞬間、叩きつけられる衝撃を覚悟したが、そんなものはまったくなかった。
 逆巻いた波の|飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた|瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。
 ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。
 頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。
「なに……これ」
 もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。
 頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。
 |煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。
 突然に耳に音が戻る。鈍い光を|弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは|滑《すべ》り出ていたのだ。
 海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。
 月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。
 波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。
 獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。
「ヒョウキ」
 |堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。
 光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。
 天も地もない闇のなかに薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。
 その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。
 陽子は呆然とした。
「あれは……」
 あれは。この風景は──。
 陽子は悲鳴をあげた。
「やだ! 逃げてーっ」
 女の手があやすように陽子をゆすった。
「そうしております。どうぞご安じくださいまし」
「いや!」
 女は陽子の身体を伏せさせる。
「しっかりヒョウキにつかまって」
「あなたは?」
「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」
 陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。
 そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の|縞《しま》がある背が、あっという|間《ま》にのまれていった。

 陽子の周囲にはすでに闇よりほかになにひとつ見えない。風が巻いて、陽子を揺さぶり始めた。
「ヒ……ヒョウキ、さん」
 陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。
「なにか」
「逃げられそう?」
「さて。どうですか」
 ごく緊張感のない声が答えてから、
「上! ご注意を!」
「え?」
 ふり|仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。
「ゴユウが」
 しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。
「なに? どうしたの!?」
 ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。
「剣を。──伏兵が。はさまれました」
「そんな!」
 叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。
「いや! 逃げてーっ!!」
 剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。
 獣に|跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが|這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。
 腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を|鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。
「……いや。やめて!」
 右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを|毟《むし》るようにしてつかむ。
「お願い、やめて!!」
 近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。
 ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が|斬《き》り捨てた。
「いや!」
 陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。
 生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に|殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。
 剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。
「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」
「いやっ!!」
 がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。
 前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。
 ヒョウキが強く左に跳ぶ。
 突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。
 なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。
 悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。
 驚いて見開いた目に、突進してくる|猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を|斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の|咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。
 それを最後に五感までもが闇のなかに墜落していった。
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发表于 2006-3-25 23:33:16 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海



 狒狒は屋根から屋上へ、屋上から電柱へ、驚異的な跳躍を繰り返して風のように駆けた。
 陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。
 狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。
「ごぶじか」
 聞かれて陽子はうなずく。|眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。
 足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。
「お泣きになっている場合ではない」
 陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。
 陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。
「……怖かった」
 つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。
「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている|猶予《ゆうよ》はないのですよ」
「追って……くる?」
 驚いて見あげると、男はうなずく。
「あなたがお|斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」
「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」
「コチョウ」
「コチョウって?」
 男は|軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。
「あれのことです」
 陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。
「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」
 短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。
 こんな|得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に|鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。
「──もうよろしいか?」
 とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。
「よろしい、って」
「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」
「出発ってどこへ?」
「あちらへ」
 あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。
 どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。
「……ちょっと待ってください」
「そんなひまはない」
 男はいらだった口調で言う。
「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」
「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」
「まっすぐに行けば、片道に一日」
「そんな、困ります」
「なにを」
 とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。
 片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を|空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。
「……困ります」
 なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。
 泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。
 ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。
「タイホ」
 男は空を見あげる。
「コチョウか」
「はい」
 ぞっ、と陽子の背筋を|悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。
「……助けてください」
 男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。
「命がおしければ、これを」
「でもあたし、こんなの使えません」
「これはあなたにしか使えない」
「あたしには、むりです!」
「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」
 呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。
 岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。
 するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。
「……なに!?」
 小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。
「いや!」
 逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。
 逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の|衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。
「いや! とって!」
 つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。
「やめて! いや!!」
「聞き分けのない。おちつかれよ」
「いや! いやだってば!!」
 冷えた|糊《のり》のようなものが背中から腕を|這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。
 膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。
「なに? なんなの!?」
「ジョウユウが|憑依《ひょうい》しただけです」
「憑依って」
 陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。
「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」
 そう冷淡に言って男は剣をさしだす。
「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」
「あれ……だけ?」
 だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。
「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」
 男は答えずに空を見あげる。
「来た」

   7

 陽子がふりかえるより先に、背後から奇声が聞こえた。
 声のほうを見あげる陽子の手のなかに、剣が押しこまれる。それにはかまわず陽子はふりかえる。背後の上空に翼を広げた巨鳥の姿が降下してくるのが見えた。
 悲鳴をあげた。逃げられない、ととっさに思った。
 逃げるよりも落下してくる鳥のほうが速い。剣なんて使えない。あんな、ばけものに|対峙《たいじ》する勇気なんてない。身を守る方法がない。
 太い脚の|鉤爪《かぎづめ》が視野いっぱいに広がった。目を閉じたかったが、できなかった。
 目の前を白い光が走って、堅い激しい音がした。岩と岩とを打ちつけたような音をたてて、|斧《おの》のように重量感のある鉤爪が顔のすぐ前で止まった。
 とめたのは剣、剣を|鞘《さや》からなかばまで引き抜いて目の前にかかげたのは、ほかでもない自分の両腕だった。
 なに? と自問するひまもなかった。
 陽子の腕が残りの刀身を引き抜いて、抜きざまコチョウの脚を払う。
 赤い血が散って、生暖かな温度をともなって陽子の顔に噴きつけた。
 陽子は|呆然《ぼうぜん》としているしかなかった。
 断じて剣を使っているのは陽子ではない。手足が勝手に動いて、|狼狽《ろうばい》したように浮上するコチョウの片脚を|斬《き》って落とす。
 また鮮血が|飛沫《しぶ》いて顔を汚した。ぬるいものが|顎《あご》から首をつたって、衿のなかに入ってくる。その感触に陽子は震えた。
 陽子の足は|血飛沫《ちしぶき》をかわすようにその場をさがった。
 宙へ逃げ出した巨鳥は、すぐさま態勢を立て直して突っ込んできた。
 その翼に斬りつけながら、陽子は自分の体が動くたび、動きにしたがって冷えたぞろぞろとする感触が身体をつたうのを感じる。
 ──あれだ。あの、ジョウユウとかいうばけもの。
 翼を傷つけられた巨鳥が、奇声をあげながら地に突っ込む。
 それを視野にとらえながら、陽子は|悟《さと》る。
 あのジョウユウとかいうばけものが自分の手足を動かしているのだ。
 |身悶《みもだ》えするように羽ばたいた巨鳥は、地を巨大な両翼で叩くようにして陽子に向かってきた。
 陽子の身体はよどみなく動いて、身をかわしざま、その胴を深く斬って捨てる。
 生暖かい|血糊《ちのり》を頭からかぶって、手には肉と骨を断つおぞけのするような感触が残った。
「いや」
 口は陽子の意思によってつぶやいたが、身体は動きをやめなかった。
 血糊が身体をつたうのもかまわず、地面に落ちてあがくコチョウの翼に深く剣を突き立てる。刺し貫いた剣をそのまま引いて大きな翼を斬り裂いた。
 そのまま陽子の身体はきびすを返して、奇声をあげ血泡を噴いてのたうつ首に向かった。
「いや。……やめて」
 巨鳥は転がるようにして傷ついた翼を大きく打ちふるっていたが、翼はもはやその体重を浮上させることができなかった。
 陽子の腕は、音をたてて宙を|扇《あお》ぐ翼を避けて胴を刺し貫いた。とっさに目をそむけたが、ぶよぶよとした抵抗を斬り裂く感触が手に残る。
 その剣を抜きざま振り上げ、|躊躇《ちゅうちょ》なくその首にふりおろした。首の骨に当たって剣が止まる。
 あらためて|粘《ねば》る血肉から引き抜いてふりあげ、赤く染まった首を今度は完全に|斬《き》り落とし、そのまだ|痙攣《けいれん》している翼で剣をぬぐったところで手足の勝手な動きが止まった。
 陽子は悲鳴をあげて、やっと剣を投げ捨てた。

 突堤の端から身を乗り出して陽子は吐いた。
 泣きじゃくりながら海中投げこまれたテトラポッドをつたって水のなかに飛びこむ。今は二月もなかばで、海の水は身を切るほど冷たいことは、まったく念頭に浮かばなかった。とにかく、頭からかぶった血糊を洗い落としてしまいたかった。
 無我夢中で水をかぶって、それでようやく落ちつくと、水のなかから|這《は》いのぼることさえできないほど震えた。
 のろのろと這いのぼって突堤に戻り、そこであらためて声をあげて泣いた。恐怖と|嫌悪《けんお》で泣かずにはおれなかった。
 声が|嗄《か》れるほど泣いて、泣く気力さえつきたころにようやくケイキが声をかけてきた。
「もう、よろしいか」
「……なに……」
 ぼんやりと顔をあげると、ケイキの表情にはなんの色もない。
「これが追っ手のすべてではありません。じきに次の追っ手が来る」
「……それで?」
 神経のどこかが|麻痺《まひ》したようだった。追っ手という言葉に恐怖を感じず、男をまっこうからにらむことにも|気後《きおく》れを感じなかった。
「追っ手は手ごわい。お守り申しあげるには、私ときていただくほかはありません」
 陽子はそっけなく返した。
「いや」
「分別のないことをおっしゃる」
「もうたくさん。あたし、家に帰る」
「家に帰ったからといって、決して安全ではない」
「もういいの、どうだって。寒いから家に帰る。……ばけものを取ってよ」
 男は陽子を見すえた。その目を陽子も淡々と見返す。
「あたしの身体に張りついてるんでしょ。ジョウユウとかいうばけものを取って」
「それは当面、あなたに必要なものだ」
「必要ない。あたし、家に帰るから」
「どこまでおろかな方か!」
 怒鳴られて、陽子は目を見開く。
「死んでいただいては困る。否とおっしゃるなら、むりにでもおいでいただきます」
「勝手なことばかり言わないで!」
 陽子は叫んだ。他人を怒鳴りつけたのは記憶にある限り、生まれてはじめてのことだったが、いったん叫んでしまうと、身内には奇妙な|高揚感《こうようかん》があった。
「あたしがなにをしたっていうのよ! あたしは、家に帰るの。こんなことに巻き込まれるのはもういや。どこへも行かない。家に帰る」
 突きつけられた剣を、陽子は乱暴に手で払いのけた。
「あたしは、家に帰りたいの! あなたに指図なんかさせない!」
「危険だと申しあげているのがおわかりにならないか!」
 陽子は薄く笑ってみせる。
「危険でもいい。あなたには関係ないでしょ」
「関係なくはない」
 男は低く吐き捨てて、陽子の背後に目線でうなずく。まえぶれもなく背後から二本の白い腕が伸びて、陽子の腕をつかんだ。
「なにをするのよ!?」
 ふりかえると、最初に剣を持って現れた鳥のような女だった。女は陽子の腕をつかんで無理やり剣を抱かせる。そのまま|羽交《はがい》いじめにするようにして抱きかかえた。
「放して!」
「あなたは私の|主《あるじ》です」
 言われて陽子はケイキを見あげる。
「主?」
「主命とあれば、どのようなことでもお聞きするが、あなたの命がかかっている。今はお許しいただきます。まずはお身の安全を|図《はか》り、事情をお聞きいただいて、その上でお帰りになりたいとおっしゃるのなら必ずお送り申しあげます」
「あたしがいつあなたの主人になったの? 勝手にやってきて、なんの説明もなしに勝手なことばかり。ふざけないでよ!」
「説明申しあげる猶予はありません」
 言ってケイキは、底冷えのする視線を陽子に向ける。
「私としてもこんな主人は願い下げだが、こればかりは私の意のままにならない。主人を見捨てることは許されない。ましてや無関係な人々をまきこむことは絶対に避けねば。否というなら力ずくでもおいでいただく。──カイコ。そのままお連れせよ」
「いや! 放して!」
 ケイキは陽子をふりかえらない。
「ハンキョ」
 呼ばれて赤い毛並みの獣が物陰から現れる。
「離れて飛べ。血の臭いが移る」
 次いでヒョウキ、と呼ばれて巨大な|豹《ひょう》に似た獣が姿を現した。女は陽子を羽交いじめにしたままその背を|跨《また》ぎ越す。
 ふうわりと、同じようにハンキョに|跨《またが》った男に陽子は訴えた。
「冗談じゃないわよ! 家に帰して! せめてあの、ばけものを取って!!」
「別に邪魔になるわけではないでしょう。ジョウユウが|憑《つ》いていたからといって、なにかを感じるわけではないはずだ」
「それでも気味が悪いの! 取りなさいよ!」
 ジョウユウ、と陽子のほうをふり向いて男は命じる。
「決して姿を現さず、ないものとしてふるまえ」
 これに対して返答はなかった。
 ケイキがうなずくと、陽子を乗せた獣が立ちあがった。とっさに自分を抱えた女の腕にしがみつくと同時に、獣は音もなく跳躍する。
「……いやだってば!」
 陽子の叫びを無視して獣は抵抗なく宙へ向かって駆けあがった。
 まるでゆるやかに宙を泳ぐようにして高度を増す。地面が眼下を遠ざかっていかなければ、動いていないのかと錯覚するほど獣の動きは穏やかだった。
 獣は宙を駆ける。夢のように地上は遠ざかって、日暮れた街の姿をあらわにした。

   8

 天には|凍《こご》えた満天の星。地には都市の輪郭を作る一面の星。
 獣は海上に踊り出た。
 宙を泳ぐように|翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。
 なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。
 暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。
 獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。
 そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。
 陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。
「あの……追ってきてる?」
 半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。
「はい。追っ手の妖魔が多数」
 女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は|安堵《あんど》する。
「あなたたちは……何者?」
「我々はタイホの|僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」
「……うん」
 陽子はしぶしぶ前を向く。
 視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。
「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」
 その声に陽子は|怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。
「……敵が来そう?」
「居ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」
「……じゃあ?」
「万が一にも剣や|鞘《さや》をなくされませんよう」
「剣と、鞘?」
「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております|珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」
 陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り|紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。
「これ?」
「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」
 言われるままに手のなかに握りこんでみると、|掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。
「……暖かい」
「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の|宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」
 うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。
 まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。
 さらに下降すれば、海面は|沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。
 獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。
「あたし、泳げない!」
 白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。
「大事ございません」
「でも!」
 それ以上を言うひまはなかった。海面が前に|塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。

 光の中に飛び込んだ瞬間、叩きつけられる衝撃を覚悟したが、そんなものはまったくなかった。
 逆巻いた波の|飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた|瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。
 ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。
 頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。
「なに……これ」
 もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。
 頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。
 |煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。
 突然に耳に音が戻る。鈍い光を|弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは|滑《すべ》り出ていたのだ。
 海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。
 月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。
 波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。
 獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。
「ヒョウキ」
 |堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。
 光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。
 天も地もない闇のなかに薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。
 その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。
 陽子は呆然とした。
「あれは……」
 あれは。この風景は──。
 陽子は悲鳴をあげた。
「やだ! 逃げてーっ」
 女の手があやすように陽子をゆすった。
「そうしております。どうぞご安じくださいまし」
「いや!」
 女は陽子の身体を伏せさせる。
「しっかりヒョウキにつかまって」
「あなたは?」
「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」
 陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。
 そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の|縞《しま》がある背が、あっという|間《ま》にのまれていった。

 陽子の周囲にはすでに闇よりほかになにひとつ見えない。風が巻いて、陽子を揺さぶり始めた。
「ヒ……ヒョウキ、さん」
 陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。
「なにか」
「逃げられそう?」
「さて。どうですか」
 ごく緊張感のない声が答えてから、
「上! ご注意を!」
「え?」
 ふり|仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。
「ゴユウが」
 しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。
「なに? どうしたの!?」
 ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。
「剣を。──伏兵が。はさまれました」
「そんな!」
 叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。
「いや! 逃げてーっ!!」
 剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。
 獣に|跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが|這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。
 腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を|鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。
「……いや。やめて!」
 右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを|毟《むし》るようにしてつかむ。
「お願い、やめて!!」
 近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。
 ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が|斬《き》り捨てた。
「いや!」
 陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。
 生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に|殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。
 剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。
「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」
「いやっ!!」
 がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。
 前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。
 ヒョウキが強く左に跳ぶ。
 突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。
 なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。
 悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。
 驚いて見開いた目に、突進してくる|猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を|斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の|咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。
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发表于 2006-3-26 00:00:34 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

今天RP太差~改天继续~~~

有人看俺就会继续~~^_^
只买不看
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觉醒的小五郎

vaio的私人秘书

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发表于 2006-3-28 21:57:30 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

超级喜欢《十二国记》支持一下~~~~~~~~~
珍惜最初的感动和约定,执子之手,与子偕老
你说不会让我后悔爱上你,所以我选择相信
以前是,现在是,将来也是。。。
不管遇到任何困难,不抛弃不放弃,是我们对爱的坚定,谢谢你
感恩发生的一切,是它们让我们走得更坚定
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杯户中学生

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发表于 2006-4-9 12:57:52 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

but~尽管喜欢十二国记~但看日文还是不习惯呀~保护视力~
奔跑在天空的脊梁。
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杯户小学生

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发表于 2006-4-12 19:24:20 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

为什么有的词有注音?
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杯户小学生

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发表于 2006-5-16 18:50:01 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

楼主大人,辛苦了!
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最后的银色子弹

荣誉警部
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月に咲く華、散りゆく花

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发表于 2006-5-17 09:26:11 |只看该作者

回复: 日文小说阅读第一弹--十二国記シリーズ 月の影 影の海

-v-

辛苦了。。。|||

是不是考虑顺便放上中翻?
History is written by the victor,history is filled with liars.
All you need to change the world is one good lie and a river of blood.
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