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日本忍者教科书《万川集海》公布

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发表于 2004-3-11 22:56:23 |只看该作者 |倒序浏览
万川集海とは、延宝四年(一六七六)に藤林保武によって著された忍
術の秘伝書である。「序」「凡例」「目録」「問答」1巻 「正心」2
巻 「将知」4巻「陽忍」3巻 「陰忍」5巻 「天時」2巻 「忍
器」5巻の計22巻より成り伊賀・甲賀に伝わる忍術全49流の集大成と
されている。それらは秘伝中の秘伝とされ、いままで全容はあきらか
ではなかった。

しかしこのたび、忍者の里である伊賀において、後世に忍者文化を伝
承する当館の役割のひとつとして、はじめてつまびらかにすることと
なった。一巻より順次巻を重ね、全訳していく予定である。

なお、現代語訳としてコンピュータ上に公開するのは抜粋であり、時
代背景などを考慮し、大意を伝えることを目的として編集した。また
表現・用語について現代の眼をもって見れば、考えさせられるものも
あるが、本書に文化的・歴史的価値があるものとして、あえて原文ど
おりとした部分もある。

■現在公開巻 一巻・二巻

万川集海 目録
万川集海之一
  序

およそ兵は国の大事、死生存亡の道である。国家安危の基本として極めて大切なことであり、細小なことではない。
その意味するところは、はなはだ深重で、軽率に扱ってよいものではない。

したがって、詳しく細かな計画を始め、五事七計を明察し、人の心をうまくとらえ、その上で、謀略をくわだて、奇正(きせい)を使う。
これは、「智」「仁」「信」「勇」「厳」の五材にかない、天・地・人の三利則にそむくものではない。

千人の兵をもって億万もの敵に当たるとしても、百戦百勝が可能であり、なんら危ういことはないのである。たとえ、世に主将の将智の持ち主であることがまれであったとしても、孫武子が闔閭(こうりょ)を助けたこと、子房を重用して沛公が天下を平定したことを知るべきである。
他にも、主が賢将の明智を大切し、国を執り、家をつつしめば大国とても恐れるに足りない。これらは皆、主が全体に備えをするため、将は必然的に賢くなるのである。

昔から、我が国にも名将は多くいた。しかし、天下を治めたといっても、威力を持って国を奪っただけである。
誰か仁義をまっとうした者がいるだろうか。

楠正成などは臨機応変の者であったが、主に徳が無かったのである。そのため、義の一篇を守り戦死して終わる。
それ以来、誰がいるのだろうか。今の末世では、人心はねじ曲がり、ただ言葉だけを重要視して実質を用いることができない。古きを振り返っても、周の民は殷の民に及ばず、殷の民は夏后氏の民に及ばず、夏后氏の民は虞氏の民に及ばない。

末代の衆民の争いがこの時代の人々の争いに及ぶだろうか。これらの者の中で、事に臨んで将の命令を重要視して義を守り、臨機応変の忠を尽くして戦う者がどれ程いるだろう。
もし、ここに名将がいて非常に巧く謀計をくわだてても、兵が皆、臨機応変に働かなければ、なかなか勝利をおさめることはできないのである。
戦は敵の虚に乗じて速やかに不意を撃つものである。その原則を考えると、謀計は多くても、忍術がなければ、敵の密計・隠謀は知ることはできない。

呉氏・孫子の兵法を調べ、張良・韓信などの秘書を読んでみても、軍法は間諜、すなわち敵の虚実を知る事が無ければ、数里の長城を攻め落とし、三軍を落とし穴に落として全勝の功を成すことはできない。
一人の働きで千万者人数を滅ぼすのは忍術でなくてなんであろう。忍術の成就に至るまで、ぜひ学ぶべきである。そうすれば敵は、鉄の囲み・垣根を築いても、兵を城郭に侵入させないでいられる術などないのである。

その術は、神通妙用の術ではなく、剣術の討つに似て、討ち下ろし帰って不意を撃つのである。
故に、間林精要(かんりんせいよう)の綱領をかかげて、忍術の書二十有余巻問答、凡例などを併せて軍事の奥義を記すものである。そのための序文とする。

延宝四年  辰仲夏日
江州甲賀郡隠士藤林保武 序

万川集海 凡例
目録

一、この書を万川集海と名付けることとする。始まりより終わりに至るまで間林精要の綱領を挙記している。

引用しているのは、伊賀・甲賀十一人の忍者が秘する忍術・忍器である。ならびに今の代にある諸流の悪いところを捨て、よいとろを選び取り、また和漢の名将の作った忍術の計策等をあまねく集め、ことにいままで公開されなかったものも、あえて公開する。

義理を顕わし、邪を正しくし、義をないがしろにせず、この術の至極に帰し、序次を乱さないでことごとく著すものである。こうし天下の河水はことごとく大海に流入して、広大なものになるという意をもってこの書を万川集海と名付けた。

それゆえ、他の忍者などが伊賀の名を借りて、かろうじて二言三言程度修得したとしても、伊賀者のようなものにはなれないのである。
その上、万計万功の手熟が多く、これらが大変奥深いことは、世の人の知るところではない。しかし、言葉を簡単にして分かりやすく述べることをあえてしなかったのは、一般の人がたわむれに口にするのを防ぐためである。 学ぶ者が、師の口授を受けてじっくりと知識を深めていけば、自ら奥深さは計り知れるものとなるのだ。もし、師の口伝を受けずにこの書を見ても、奥義に達する事は不可能である。

一、この書を正心・将知・陽忍・陰忍・天時・忍器の六篇で構成し、正心を第一とする。正心とはあらゆる事・あらゆる技の本源であるからだ。そもそも忍芸は智謀計策をもって、ある時は塀・石垣などを登り、ある時はくさり、かんぬき、掛鉄、尻差を外すこともあるので、ほとんど盗賊の術に近い。そのため、天道の恐るべきを知らない無道の者が術を修得して悪逆を働いたなら、私がこの書を作述することは結局盗賊の術を教えることにもなりかねないと考え、正心を第一におくものである。

つまり、忠義の道をはじめとし、生死の道理を記して心を正しくするための階梯(かいてい)とするのである。誠と知を尽くすことは他人の嘲笑を招くものとはいえ、志を正しく行うときは大きな助けとなることだろう。しかし、学び始めたばかりの者はこの一篇を糸口として、一日中常に、休み、座り、寝る時も大勇猛の意志を持ち、眼を忠貞の源につけ、長くこの術を習熟させるなら、おのずと悟りを開き正心の意味するところを知ることであろう。この術によく通じていれば、柔弱な人も剛強になり、よこしまな人も忠義を守り、愚者も聡明になれるのである。勇知の義を知れば忍び入れないことなどない。

もし、心の不正な時は、淵源の謀略も成功しない。たとえ謀略をめぐらそうとしても、計画は自然とばれて、敵の耳に入ってしまうものである。武勇があっても剛を成し遂げることはない。それ故、正心を第一とするのである。

一、将知を第二におくこと。
これは、忠勇謀功の域に達した忍者であっても、軍将がその者を用いなければ謀略は成功し難い。謀略がうまくいかないのは忍術の利用価値を理解していないからである。軍将がそれを理解していなければ、狐疑の心が起きて、忍者を敵陣に送り込むべき配慮に欠ける。また、もし忍者を送り込まなければ、敵の秘計などを知ることもできない。

さらに、敵の秘計を知ることができなければ、軍を手分けも謀略も決めることができない。手分け・謀略が決まらないということは、そのまま敗軍の基となるのである。また、もし忍びを使わずに敵の状況を推量して謀計を立て、あるいは手分けなどして備えとするのは、暗夜にやみくもに石を投げるようなもので、謀備が予想に的中することは、まず無いのである。

したがって、東に備えている時は西から攻められて、たちまちひっくり返され、南に備えている時は北から攻められて、慌てうろたえて敗北することがよくあるのだ。他にも、将軍である人が忍びを用いる方法を知らない場合は、たとえ忍者を敵の城営へ侵入させても、外からこれに応じて攻めるための成果が上がらない。成果が上がらない場合には合戦に勝利はないだろうし、あるいは忍者が不慮の死を遂げるであろう。そのため、将知を第二とするのである。将知の下篇には、忍者を我が陣に入れない軍法を記して、その術を軍将に知らしめ、敵の忍者を我が陣へ入れない方法を教えて、その上で忍者を入れる術を著すものである。

一、陽忍を陰忍の前に置くこと。  陽は始まり、陰は終わるという理をもって、このようにするのである。才智ある人がその術を聞いても、平素の修練がなければ陽忍者にはなることができない。この術を修得する意志のある人は平生怠けることなく訓練すべきである。

一、陽忍の下篇に視・観・察の檐猿(のきざる)の術を記すのは、忍者は敵の様子を必ず見聞きする職だからである。学ぶ者は忍びの事の外のこととを思い、これをおろそかにしてはいけない。
陰忍の下篇に忍び・夜討ち・強盗等のことを記す。これもまた、忍の事では無いと思って疎かにしてはならない。夜討ちとは忍びの休用のものである。それ故、忍術を知らない夜討ちは夜討ちの理にうとく、夜討ちを知らない忍者は忍者の理に至らないわけである。

また、捕者のことはこの道の本意ではないといっても、近代は忍者の所作のようになったので、昔からの作法の概略を訳すものである。この術の本意ではない。何故かといえば忍者の術ではなく雑色の仕事だからである。

一、天時天文を第五に置くのは、天の時は地の利におよばず、地の利は人の和におよばないという先賢の教えに基づいてのことである。
ただ、天時の篇の中に忍術に重要なことが多くあり、これをおろそかにしてはならない。また、強いてこればかりを重要視することもないように。

一、忍器は陰忍の足がかりであるが、器物製作の伝授であって忍びの理ではないので第六に記す。
忍器は自分で為し覚えてその善し悪しを試すべきである。 もし、試していないなら用いてはならない。できるだけ一器をもって多様に使えるように、単純に製作することに専念するのがよいのである。その製法は巻の題の下に詳しく述べる。

万川集海 序 凡例  終

万川集海 目録   
第一     序 凡例 ならびに目録 問答

巻第二・三   正心 上下

巻第四     将知 一  忍宝のこと

巻第五     将知 二  期約のこと
忍術禁物三箇条     隠書二箇条
矢文二箇条       相図(合図)四箇条
神通の隠書       約束六箇条
将相応三箇条      忍者無恙(つつがな
し)の約二箇条
忍者召し抱えるべきの次第

(将知の三が無い)

巻第六     将知 四  謀を入れざるのこと 上
敵の忍び抱えるべからずの五箇条
軍制六箇条

巻第七     将知 五  謀を入れざるのこと 下
篝火三箇条       相詞相印相謀六箇条
番守作法六箇条     夜廻三箇条
外聞二箇条       器を用いて敵の忍び
を拒む術二箇条

巻第八     陽忍 上  遠入のこと
始計六箇条       桂男の術三箇条
如景術三箇条      久の一術二箇条
里人術二箇条      身虫術二箇条
袋翻術二箇条      螢火術三箇条
天唾の術二箇条     弛弓術二箇条
山彦術二箇条

巻第九     陽忍 中  近入のこと
略本七箇条       相詞を合わせる術
四箇条
相印を合わせる術四箇条 迎入術三箇条
妖者術二箇条      参差(入り交じる・散
らばる)術三箇条
水月術三箇条      谷入術五箇条
虜返術二箇条      袋返全術二箇条

巻第十     陽忍 下  目付のこと
山谷の見積二箇条    附、山に就ける心に付
いての八箇条
海川の見積四箇条    田の浅深を知る
四箇条
堀の浅深広狭を知る五箇条
城の堅固不堅固を知るの條々
地形の遠近高低を見積もる二箇条
敵の強弱を察知する三箇条

見分けのこと
敵勢大積二箇条
備え・人数を積察する四箇条
備押の人数を積察する四箇条
自らの城営の外窺い知るべき十箇条
夜に至りて見違える三箇条

間見のこと
城営より敵の進退を見分ける三箇条
陣を取る敵・退く敵を見分ける二箇条
伏兵の有無を見分ける五箇条
敵の河を渡るか渡らざるかを見分けるの條々
家族:LP——匀匀;女儿——古怪灰原
老板:healy(把偶丢下了,不联系偶)MM:ELLIS(老是和偶抬杠)

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旗・塵をもって敵を察する七箇条

巻第十一    陰忍 一  城営の忍  上
先考術十箇条虚に入る術二十箇条
堕に入りて帰する術八箇条

巻第十二    陰忍 二  城営の忍  下
利便の地十三箇条    器を用いる術
十五箇条
著前術二箇条      魘入術二箇条
隠蓑術
放火術六箇条

巻第十三    陰忍 三  家忍のこと
四季弁眠大図四箇条
因年與心行眠覚を察する三箇条
遇犬術二箇条      歩法四箇条
景音を除く術六箇条   必ず入るべき
夜八箇条
陽中陰術四箇条     鼾の音を聴く術
五箇条
敵を見る術四箇条    隠形術四箇条
家忍人配三箇条     用心術二箇条
害を用いる術六箇条

巻第十四    陰忍 四  開戸のこと
開戸始計三箇条
尻差を放つ術四箇条   掌位をもって尻差を
知る六箇条
掌位をもって掛鉄を知る五箇条  附、掛鉄
の図
掛鉄を放つ術八箇条
枢を知る二箇条  附、枢を放つ術三箇条
鑿(せん)の有無を知る二箇条
鑿を放つ術二箇条
鎖子を察知する術六箇条  附、鎖子の図
諸鎖子を開く八箇条ならびに極意二箇条

巻第十五    陰忍 五  忍夜討
物見二箇条       出立四箇条
令命七箇条       前謀四箇条
時分四箇条       作法十八箇条
強盗夜討十二箇条    捕者術二十一箇条

巻第十六    天時 上  遁甲 日時のこと
日取方取惣摩久利のこと
日の五掟時を知ること

巻第十七    天時 下  天文のこと
風雨を占うのこと
月の出入りを算え知る三箇条
潮の満干を知る図説四箇条
闇夜に方角を知る二箇条
時割を知る二箇条  附図

巻第十八    忍器    登器
結梯図説        飛梯図説
雲梯図説        巻梯図説
畳梯図説        鉤梯図説
高梯図説        苦無図説
打鉤図説        探鉄図説
長蓑図説        蜘梯図説
飛行図説        龍登図説
忍杖図説

巻第十九    忍器    水器のこと
浮橋図説        沈橋図説
蒲筏図説        甕筏図説
葛篭筏図説       水蜘図説
水掻図説        鵜の図説
橇の図説        軍船図説

巻第二十    忍器 三  開器
問外図説        刃曲図説
延鑰図説        入子鑰図説
鑷(じょう)図説    鑿図説
錐図説         鋸図説
鎌図説         釘抜図説
鎖子抜図説       聴鉄図説
板橇図説

巻第二十一   忍器 四  火器
蜘蛛のこと       火口方
附竹のこと       筒火八箇条
鳥子のことならびに図  火箱図説
万年火図説       不滅明松図説
義経明松図説      強盗挑灯図説
入子火図説       狼炯薬方
水火縄薬方       楊枝火薬方
生滅明松薬方      水火炬四方
風水火炬五方      水中火二方
焼薬一方        熊火方
車火炬方        熟眠方
明眼散方        忽亡散方
軽足散方        籠火方
寒陣火方        打明松方
水篝方         暗薬方
捲火方         水鉄砲薬方

巻二十二    忍器 五  火器

万川集海大尾

術問答
 目録  ある問いに曰く、忍術という事はいつの時代からはじまったのか。答えて曰く、そもそも軍法とは上古伏羲帝より始まり、その後黄帝に至って盛んに行われるようになった。
それより後代に伝わったが、心ある人でこれを尊く用いない者は無かった。つまり、忍術は軍用の要なのである。
初めに伏羲・黄帝の時代に起こったといっても忍術の事は書物には見られない。ただ、その質のみである。この意味ではときどき古書に見られる。

問うて曰く、忍術は軍法の要用であるという理由は何か。答えて曰く、孫子十三篇の中の用間の篇に忍術を記載している。その他歴代の軍書、また我が国の兵書にもだいたいが、まぜてだされていないものがなく、この術が記されている。

忍術が用兵の重大な要で無いのなら、どうして歴代の明哲がこの術を書き残し、伝えたりするだろうか。また、あなたがきかないことはないだろう。軍書に兵法は内を治め外を知るとあるが、これは敵の内計・密事等を詳しくこまかに知ることをいうのである。

敵方の様体をよく知るには何の術をもって知るかといえば、地形の様子・敵の進退・人数の多少・敵合の遠近等を遠くから速やかに見察し、主将へ告げるのは見張りの武者の役目である。

また、敵の塀端・柵端まで近くに忍び行ってその様体を見聞し、あるいは敵の城中・陣中に忍び入り、あらゆる様子・陰謀・密計等まで詳しく聞き、詳しく見て、主将に告げ知らせ、方円曲直の備えを決定し、奇兵正兵をうまく使って、敵を征伐できるようにするのは忍術のなせる技である。もしこの術が無いときは、敵の計略を知り、勝利を天下に全うすることは困難である。

このことから、忍術は軍の要用であることを知るべきである。問うて曰く、中国においてもこの術を忍びと名付けているのか。答えて曰く、忍びとは我が国の呼び方である。呉の国では「間」といい、春秋の時代には「諜」といい、戦国より後は「細作」・「遊偵」等と呼ばれているものも忍術の事である。

また六韜(りくとう)には遊士といい、李筌(りせん)の陰経には行人となっている。このように、時代によりまた、主将の意によって呼び方が異なり、我が国で忍び夜盗・すっぱ・簷猿・三者、饗談等という類のものである。

問うて曰く、忍術の名が中国で間諜・遊偵・細作・遊士・行人等と呼ばれるその理由はあるのか。
答えて曰く、孫子用間の篇、間の字の註に、「間は罅隙(かげき)なり。人をして敵の罅隙に乗らしめ入りてもって探りその情を知るなり。」とある。つまり、間とはすきま・ひまという意味である。人を使って敵の暇・隙間をうかがい、それに乗じて敵の城陣に入りこみ、敵の陰謀・密計万端のことを探り、こちらへ知らせてよこす。

あるいは、便隙(べんびん)をうかがって敵の城陣に入らせその城営を焼き、夜討ちなどをたばかる職である。

また、間の字に「へだてる」という読み方がある。それ故、忍術に隔てるの術がある。敵の君臣の間を讒言(ざんげん)をもって隔て、また敵がその隣国の君主と和合の間を隔て遮り、援兵等のないように工作し、あるいは敵の大将とその部下との間を隔てて相害するように仕向ける術を使う。
このことから、「へだてる」という訓読みがある。和漢ともに昔から敵方の内乱を謀って勝利を得た先蹤(せんしょう)は大変多い。 
間の字の意味はある説に、門の中に日を入れるこの術の実理には、敵の城陣へ間断なく突入するのは、例えるなら日光が門戸に射し映るとき、少しでも隙間があれば直ちに中に射し入る様に、速やかに入るという意味があるという。

この理は非常に深く、微妙であるから、普通の人には難解である。また諜の字、偵の字二つながら「うかがう」と読む。大体において忍の術は遊ぶような体でいて、その間に敵の便隙をうかがい、侵入してその様子を見聞する職であることによって偵などとよぶのである。

楠正成の忍術に、四十八人の忍者を三番に分けて、十六人ずつ常に京都に置いておくというものがある。この者共は様々な密計を用いて京中の様子をうかがい知り、楠に報告していた。これが遊偵の意味にあたる。
また、細作というのは忍者が敵方へ行って様体を充分に見聞し、大将に報告することによって、大将が謀略の術を細かく作るという意味である。
 (略)
また遊士というのも、遊んでいるようで心に深い考えを持つことから名付けられたと思われる。行人というのは、敵と味方との間を往来することから、また行の字に「たてつたう」、「たいらく」という読みがある。このような意味をもって行人と名付けられたと考えられる。

問うて曰く、中国でこのように色々に名を替えているのはどういうことか。
答えて曰く、孫子に間と名付け、そうしてからこの役人を間者という。故に間といえば、いつの世もこの役人の意味するところははっきりしている。人は皆これを知っているのである。そもそもこの術の奥義は、名と芸・術ともに人に知られることを禁じている。人に知られないことをもって大きな功をなす。ゆえに、深く秘することを基本とする。

そのため中国では代々名を改めて、世間にその職であることを秘するために名が替ったと考えられる。 

問うて曰く、中国においては名を改め、我が国では忍びと名付けているのには必ず理由があるはずだが如何か。
答えて曰く、中国でこの術の名を間諜・遊偵・細作・遊士・行人などというのは右に答えたように、敵の便隙をうかがい入り、あるいは敵の君臣や隣国の交わりなどを隔てる職であるという意味で名付けてある。これらは皆、忍術の末端の理を取って名付けられているのである。

我が国において忍と称するのは、つまり刃の心と書くその意味によってこの術の名とするのである。これはあまねく術の本質をもって名付けられている。
この意味を考えることなくして、術の淵源を知ることは困難である。

曰く、できるならその子細を聞きたい。  

 答えて曰く、敵の便隙を窺い、危険な計画を用いて忍び入るその根本は、皆その心が堅貞であり、たとえるなら刃の堅く鋭い様子と同じなのである。
 
 なぜなら一心が刃のごとく鋭く堅くなく、鈍くて軟弱であれば、たとえどんな謀略を、こちらで巧みに計画しても、敵に近づく時に心が怖じけて、謀計は実行できない。
 もし敵に近づくことができてもその心は落ち着かず、言葉は乱れその謀略は表面に顕れて、ついには敵に捕われて自分が死ぬことになるだけでなく、大将の災いとなることは瞭然である。

その故に敵の便隙をうかがい忍び入ることは、刃の如き堅貞なる心があって初めてできることなので、我が国において異邦からの名を改めて、刃の心と書く字をもってこの術の名とするものである。
また、敵に近づくことが肝要であるが故に、伊勢三郎義盛の百首の忍歌にも

 「忍びには習いの道は多けれど先ず第一は敵に近づけ」
と、詠まれている。
 問うて曰く、いま右にそのいわれの述べられた忍びという名は本邦でも色々変わり、夜盗・すっぱ・簷猿・三者、饗談などがある。すっぱ・夜盗などというのは伊賀・甲賀で古くから言い習わされたことなので使われるのであろう。
 
 簷猿というのも敵の内証を見る役であることから、忍びといわずに簷猿というだけである。三者饗談とはどういう意味で名付けられたのか、いわれは何か。
 答えて曰く、甲斐国の守護武田信玄晴信は名将である。忠勇にして謀計の巧みに行える者を三十人抱え置いて、禄を重くし賞を厚くして(重用し)間見・見分・目付と三つに分け、その総称を三者と名付けて常々心を通わせておき、軍事の要に用いられた。隣国の強敵と戦って一度も不覚を取らなかったことは全て三者の功績であると待遇なさったのである。
 信玄の詠歌に
 「合戦に三者なくして大将の石を抱いて淵に入るなり」
 「戦いに日取方取さしのぞき三者をやりて兼ねて計らえ」
とある。
 織田信長公は饗談と名付けて用いなさった。今川家の大軍に微妙なる勝利を得られたこと、尾州犬山・三州鵜殿の城その他隣国他国の堅城強敵共を、力も入れず兵士も損なうことなく手に入れられたことは勝ちは計るべからず。これらは皆饗談の功績である。
 越後の謙信なども全勝の功績はこれにありと、重く用いられたということである。
 このように名将がその名を失わないで、色々な名前を付けて忍びを召し抱え、仕えさせることは、実に微妙な利益のあることなのだ。大将であろうとする人は忍びを肝要とされること必定である。

 問うて曰く、忍びの道は伏羲の時代に始まり、黄帝の代に盛んになったと右に述べられたが、黄帝より後の世でこの道が今に伝来した由来はどのようなものか。
 
答えて曰く、私は学もなく、才能も未熟であるので詳細は知らないが、大体のところ伝えられているのは、黄帝より後は忍術を知っている者が少ない。この道を用いる者が希であったとはいえ、殷の時代になって伊尹(いいん)という人がこの道を修得し、殷の湯王に仕えて夏の桀王へ忍び入り、桀王を亡き者とした。
 
その証文は孫子に次のようにいわれている。
 「殷之興也、伊摯在夏」
 註にいわれているのは、殷は湯が天下を治めた時の名で、伊摯とは伊尹のことであり、夏は夏王桀である。
 昔殷の国が初めに興った時、人々は暴君が伊尹を南巣(なんそう)に追いやったと思っていた。
 
 しかし、「伊尹が五度桀に就き、五度湯に就く」、伊が間者として働いたことを知らない。その後周の太公望という人に伝わり、彼が忍術の書七十一篇をあらわし世に伝えた。その証拠は、太宗問対に「太子靖曰く、太公の言は七十一篇である。兵をもって究められないように云々」、註に「言とは間事のであると云々」間事は、つまりここにいう忍びである。

 この書は我が国には渡来しなかったのだが、芸文史には「太公の謀・言・兵の三つは六韜の中に皆記載されている」とある。この言葉から考えると、六韜に忍びの事全く記載されていないこともなく、おそらく七十一篇の間事も載っているにちがいない。
 
 しかも太公望が敵の紂王へ忍び入り、紂王を滅ぼしした事は正確に孫子の用間の篇に見られる。
 用間の篇に曰く「周之興也。呂牙右敵云々」、註にいわれているのは、周は武王が天下を治めた時の名である。

 呂牙は太公望のことで、敵というのは敵王紂である。太公の言に、周の国が初めに興った時、人々は皆ただ牧野(ぼくや)の誅のことしか知らなかった。つまり、呂牙が敵中にあってはじめに酒、賄賂を献じ自由自在の陰謀の間事を為したことは誰も知らない、といわれているのが証拠である。
 
 その後、呉の孫子に伝わり、五間といって五つの忍術をうまく編み出し、これを用間の篇に著したのである。
 その他、春秋・戦国・三国・唐・五代・北宋・南宋・当代の名将も皆忍術を用いない者はいない。
 しかしながら、太公望・孫子の忍術を伝えたのは、前漢の張良・韓信の二人と思われる。その根拠は、太宗問対に李靖曰く「張良が学んだのは太公の六韜三略である。

 韓信が学んだのは穣苴(じょうしょ)、孫武である。しかし、大体が権謀・形成・陰陽・技巧・八十一篇謀・七十一篇言・八十五篇兵の三門四種の域を出ない云々」と。

 この三門の中の一門は忍術の事である。

 問うて曰く、我が国ではこの道はいつの時代から始まったのか答えて曰く、三十八代の帝天智天皇の弟君を天武天皇とおっしゃる。この御代において清光親王が反逆を企て、山城国愛宕郡に城郭を構えて籠城した時に、天武天皇の所から多胡弥という者を忍び入らせた。
 
 多胡弥は城内に侵入して火を放ったので、天武天皇は外から攻め込みなさって、その城はたちまちにして落ちたという。これが我が国で忍術が用いられた最初である。
 この事は日本紀に見られる。後世の将たる人でこの術を用いない人はいない。
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 特によく忍術を用いられた将は、伊勢三郎義盛・楠正成父子・武田信玄・毛利元就・越後謙信・織田信長公といわれる。
 中でも、義盛は忍びの事を歌百首に詠んで残し、今に伝わっている。
 
 楠正成は、軍法の極意ならびに忍びの術を六つに分けて書き記し一巻にまとめて深く秘密にしていたが、兵庫で討ち死にした時、正行に伝えよと言って恩地左近太郎に渡して、後に伝えたのである。 故にこの書を楠の一巻の書という。
 義盛・楠父子・信玄・元就・信長公・秀吉公など我が国の名将はいずれも忍術を用いて勝利を得たこと勝ちて計るべからず。

 問うて曰く、この術が広く天下に用いられたことは聞いたが、主に伊賀甲賀が特に忍びの名門として有名なのは何故か。
 答えて曰く、昔足利将軍尊氏卿が天下を治めた後、その子孫が続けて天下の武将の地位に就いた。しかし、政治はうまくいかず、上下の順序も定まらなかった。
 
 官職は既に乱れており、兵革(へいかく)が止むときもなかった。あるいは征伐する者が諸侯から、また太夫から出てきて国内の平安な時がなかった。特に、尊氏から十三代目の将軍光源院義輝公の時に至っては、ますます身分の上下もなく、つまり綱常三綱(こうじょうさんこう)《君臣・父子・夫婦の道》と五常《仁・義・礼・智・信》・治法もみな滅び去り、壊乱ここに極まったのである。
 
 また、五畿・七道ことごとく争い、四夷(しい)八蛮に至るまで乱れていない者は無く、争っていない場所も無かったのである。それでも他の国にはみな守護がいて、その国の民はこれに従っていた。
 しかし、伊賀甲賀の者共は守護を持つことなく、それぞれ自分の力で知行の地に小城を構えて自由に振る舞っていたのである。
 守護大将がいないので、政道を治める者もいない。そのため互いに、人の土地を奪い取ろうとして闘争に及ぶことが幾度あったことであろう。
 
ゆえに、朝夕に合戦の事のみを仕事として、武備こそが生活の中心であった。互いに便隙をうかがう代であり、忍び入り城郭を焼き、あるいは敵の内意を知り、中傷などをもって敵の和合を妨げ、あるいは襲って夜討ちなどをし、あるいは敵の不意を突いて千変万化の謀計を為すため、兵士はいつも馬の鞍を外さず、身分の低いものは常に足半(あしなか)を太刀の鞘にさして、一日も安心していることはない。
 
 それ故、少勢をもって多勢に勝ち、柔軟をもって剛健に勝つためには、忍びを入れるのが一番であるということで、どの兵士も普段から忍びの手段を工夫し、隠忍を下人にも習わせたのである。
 こうして、下人どもの中に十一人の隠忍の巧みな使い手が出来上がり、自国他国を選ばず忍び入って人の領地をかすめ取り、人の城を抜いて、勝利を得ることは掌に転がすように簡単であった。
 
 これによって隣国は多勢にして強い大名が多くいたといっても、伊賀の地を奪い取ることはなかった。信長公ほどの強将といえども伊賀において敗北されたのである。
 ましてその他の大名は誰もこの国には望みをかけなかった。小国で人数が少ないだけでなく、大将も持たない寄合勢といい、どうみても頼りない様子であるのに、隣国の大将のある大軍に一度も負けたことがない。 勝利を得たのはなぜか。それは皆忍術の功績ではないか。このような理由をもって伊賀を忍びの本拠とするのである。

 問うて曰く、十一人の隠忍の使い手の名を聞きたい。
 答えて曰く、野村の大炊孫太夫・新堂の(金藤)小太郎・楯岡の(伊賀崎)道順・下柘植の木申(太郎)・小猿(八郎)・上野の左高場左兵衛(四郎)・山田の(瀬登)八右衛門・神戸の小南・音羽の城戸・甲山太郎四郎・同太郎左衛門。
 
これら十一人でなくてはならないといっても、道順の一流は四十八流になったので当代忍びの事を言う者は、伊賀甲賀に忍びの流儀四十九流有りという。

 問うて曰く、道順の一流が四十八流になった由来は何か。
 答えて曰く、佐々木義賢入道抜関斎承禎というのは近江の国の守護であった。その幕下の士に百々(とど)という者がいた。
 反逆を企て同国の澤山の城に立てこもったのを、承禎は数日間攻めてみたが、この城は堅固の地にあって落城しそうもなかった。そのため伊賀の忍びの名人を雇い、忍び入れようと計画し、かの道順に相談した。
 
 そこで道順は伊賀の者四十四人、甲賀の者四人、合計四十八人を召し連れて承禎の守山へ赴いた。
 ところで、伊賀の湯船という里に平泉寺があった。その近くに宮杉という陰陽師(おんみょうし)が住んでいた。道順がそこに立ち寄り、忍びの吉凶を占わせたところ、宮杉は吉と占った。そのうえ、門出を祝おうと腰折歌一首を詠んだ。
 「澤山に百々となる雷もいかさき入れば落ちにけるなり」と詠んで道順に贈った。
 道順の名字が伊賀崎というので、それを掛詞にしたというのである。
 
 道順は「これはめでたい」と喜んで鳥目、百疋を宮杉に与えた。
 その後承禎の所へ行って合図・約束を決め、程なく妖者という術で澤山城へ忍び入り内側から火を放ったので、承禎は外から急襲した。
 百々の軍勢は、火を消そうとすれば敵が乱入し、敵を防ごうとすれば火勢いよいよ強くなって、どうすることもできずに、ついに敗亡したということである。
 
 その後道順が召し連れて行った四十八人の者共は皆それぞれの流派を立てて、何々流と名付けたことにより道順の一流は四十八流に分かれたといわれている。

 問うて曰く、昔から今までの間で、伊賀甲賀で忍びの上級者と言えるのは右の十一人ならびに四十八人の者共なのか否か。
 答えて曰く、たいてい他の芸では、上達すれば必ずその者の名が外に顕れてくるものである。その名が世に知られているほどの者は必ず一流の者である。 しかしこの術は他の芸とは違い、上手と言われているのは中級の忍者であって、良いものではない。ただ、上手も下手も人に知られることなく、切れ者であるのが上級の忍びとされるのである。古語に、水は浅ければ音を立てるというように、深淵の水には音もないものである。
 
 谷川などの浅い水が音を立てるように、かえりみると、謀計の深くない中級の忍者の方がかえって有名になる。どうしてそのようになるかといえば、謀計深き一流の忍者は、まず平生は忍者であることを深く隠して顕わさない。ただ普通の兵士と同じようにしているか、または隠者・浪人などの様子で、忍術など知っている素振さえ見せずに普通の人のように振る舞っているのである。
 
 もし非常事態が起こって家老達が出頭し集まることがあっても、そのことを知らせずに大将一人とのみ極秘に謀り、合図を決め、敵城へ入って淵玄微妙の謀略を巡らし、敵方の気勢がみずから衰えるようにするのである。

 敵の滅んだ後も武功を語らず、忍び入って陰謀を巡らせた事も語らない。そのため、敵が滅んだのはその人の功績であることを人々は知らずに、敵の運が尽きて自然の道理で敗亡したように思うのである。

 このように有能な忍者は抜群の成功を収めても、音もなく匂いもなく、智名もなく勇名もない。その功績は天地が造られたもののようである。
 天地の春はのどかで、草木は生長し花が咲く。夏は暑く、草木は生い茂り、秋は涼しくて草木は紅葉し、やがて落ちる。冬は寒く、雪・霜が降り、草木は枯れて根に帰る。
 それだけでなく、四季あるいは一日の間にも色々様々な事があるが、これらの事を行っているのが誰なのか知る者はいない。
 同様に、有能な忍者の智は天のように広大である。したがって人が探知できる事ではない。そのため、かえって智の無い者のように見えるのである。その謀略の厚く深いことは、大地のようであり淵のようであるから、人の思慮の及ばないものである。
 
 このことから忍術の源は、右に挙げた十一人ならびに四十八人の者
共の及ぶところではない。
 この五十九人の者共は皆底が浅いから有名なのである。世に顕れなくても、五十九人の者共の主人達などはよく忍術を知っていたので、その深さゆえにかえって名を残さなかったのである。

 問うて曰く、我が城は堅固で五行方円の備えを乱さず、合い言葉・相形の約束を定め、夜は篝火(かがりび)を焚くよう指示し、全ての番所を厳しく守り、休み無く夜回りを行い、こまめにくせものが紛れ込んでいないかを調べている。
 こうしてほぼ忍術の者を閉め出している場合にどのようにして忍び入ることができるか。

 答えて曰く、将たる人がどれほど城を堅固に築き、兵を五行方円に備え、用心を怠らず厳しく守りを固め、くせものの紛れるのを防いだといっても、それらは皆末端の防御である。
 そもそも忍術は、平素平穏の時に始計をもってあらゆる国の政治を視て、将の五材十過をうかがい、君臣の間の是非あるいは兵士以下が主君を重んじているかどうかを察しておく。
 
 そしていざという時に臨んで、至霊微妙の謀計をもって、敵の心まだ発する前の初期に自然と潜り込むのである。こうして初めてあらゆる謀計が自由に操れることは、環の端なきがごとし。
 
 兵法に曰く、「まことに微妙なことにまで、間者をもちいないところはない」陰経に曰く、「もし隼を撃って、これが生い茂った林に入ればその跡形もない。もし泳いでいる魚が深いよどみに入ればその跡形もない。離婁(りろう)は首を伏せてその形を見ず、師曠(しこう)は耳を傾けてその音の微妙なるを聴かない。繊塵(せんじん)とともに飛ぶような勇気・武力しか持たず命を軽んずる武将にどうやって行人のことを理解することができようか云々」 問うて曰く、先ほど述べられたように忍術を防ぐことが困難であれば、我が城営にも敵の忍びは侵入できるのか。
 
 また敵の忍びを入れない方法はあるのか。
 答えて曰く、この術は非常に高度である。忍者にどれほど敵忍を防ぐ術があっても、君道のない時は無駄になってしまうのである。
 
 そのため、主将はまず群臣を教え、仁義をもって万民を愛するものである。そうすれば、軍兵は死地に臨んでもいささかも君主の命令に違反することはない。これは平生道理をもって教え、愛するがゆえである。このように道を立て、たとえば火急の時に臨んでも、軍将が入ることはできず、大謀の忍術をもって城営を堅固にして、五行方円の備えを整え、上級の巧みな忍者を入れず小謀の忍術をもって軍政を出し、新旧の兵士を改め、組分けし、手分け・手配をし、合い言葉・相形をその時々に定め、夜中は篝火を指示し、夜回り陰回り役を決め、敵忍の侵入しそうな所には釣塀をし、菱を撒き、伏兵を置き、あらゆる小口を油断無く守るときは、敵忍は侵入できない。
 
 こうして将と忍とがその道を互いに通じ合わせておけば、此方からは敵へ忍び入りやすく、こちらの様子を敵忍がうかがうことは難しくなるのである。

 問うて曰く、忍者がこの静かな時代にあって、どこかの国の君主に仕えようとしたとする。その主君が言われるには「試しに城内に兵を集め、あらゆる小口を堅固に守らせ、用心を厳しくして、実際の戦闘の際に敵忍を防ぐようにお前を防いでみせよう。このように守りを固めた我が居城へ速やかに忍び入ることができるか。もし速やかに忍び入ることができれば、お前の望む通りの俸禄を与えよう」このような場合どうするのか。
 
 答えて曰く、そもそも忍術は信実无妄(むぼう)より起こる謀略であり、いやしくも君主を欺く術はない。故に万川集海、正心の下篇にいうように、この術を志す者は、私欲のために忍術を用いることは毛頭ない。
 また、道理をわきまえない君主のためにたばかることはしないのである。ただ平生静かな時、味方の城内に忍び入る術が無いわけではない。
 
 しかし太公望も、謀の道は周密であることを宝としている。治世の時に忍術の微妙を著して忍者の功名を求めることは非常に嫌悪されることである。もし君主たる人が他国の城内の様子を知ろうとするなら、忍びを入れることもできる。しかし、なぜ味方をあざむき、功名を為し、忍術の実理を失わなくてはならないのか。
 
 至極の理をもって掌を示すよりも簡単に忍び入ることを知る、その事実を見てその至理を理解しない時は役に立たない。
 正道を知らない愚将には初めから仕えないのがよい。これは忍士の法である。
 
 兵書に「不在聖智、不能用間。不在仁義、不能使間。不在微妙、不能得間之実矣」とある。《聖智にあらざれば、間を用いるに能わず。
仁義にあらざれば、間を使う能わず。微妙にあらざれば、間の実を得るに能わず》君主・将軍が非常に優れた智恵を持っていなければ間者を用いることはできない。人を慈しみ物事をよく処理できなければ、間者を思うように使うことはできない。心の働きが奥深くにまで達するのでなければ、間者の報告から真実を汲み取ることはできない。

 そうだとすると、この意味を持って平素治世の時忍術を著さないことを、よく考えて知るべきである。
 この理に到達すれば、乱世に臨んで主将を助け、国家を治め、大功を建てることが必ずできるのである。

忍術問答  畢

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万川集海巻之二
  目録    正心第一
 そもそも忍びの根本は正心である。
 忍びの末端は陰謀・佯計である。
 
 そうであるから、その心を正しく治めないときは臨機応変の計略を運用することができないのである。
 孔子曰く、その本乱れて未だ治まる者はあらず。
 いわゆる正心とは、仁義忠信を守ることにある。仁義忠信を守らなければ、強く勇猛な働きを成すことができないばかりか、変化に応じて謀計を運ぶことも叶わないのである。
 
 故に大学に曰く、心ここににあらざれば見れども視えず、聞けども聴かず、食してその味を知らず。
 こことは「仁」「義」「忠」「信」を指していうなり。
 ぶ者は本を外に、末を内にするなかれ。
 鄭友賢曰く、いにしえの人は大事を立て大業をなすとき、いまだかつて「正」を守らなかったことはない。
 
 「正」は意をとりいれず、いまだかつて権を借り道をなさないことはなかった。
 そもそも事が権力を用いるに至って何ほどかなさんや。ただ道のあるところは、結局「正」に帰すのである。
 即ち権力は害をなさず聖人の徳なのである。
 兵家にあっては「間」という。聖人にあってはこれを権力をいう。
 
 湯王は伊を得ることなくして、夏王の悪行を知り尽くすことはできなかった。伊が夏にいなければ、湯王の美徳をなすこともできなかった。武王は呂を得ることなく、武王の徳をなすことはできなかったのである。
 
 この二人がいなければ、天に従い、人に応じて民を吊し罪をばっして立つことはできなかった。
 これはつまり夏商において「間」をなした事以外に、その道がついに正に帰した根拠を何と考えるのか。
 あなたがこの文意を見るとき、忍びの方術は、つまり私欲のためではなく、また道をわきまえない君主のためにはかるものではない、と知っておくべきである。
 
 もしこの主旨にそむき、私欲のために忍術を行い、道をわきまえない君主を補佐して謀計を立てたときは、どのような陰謀を運用しようとしてもその陰謀は必ず露見するにちがいない。仮に、露見を免れて、一旦は利潤があっても結局は自身の害となることは必然の理である。つつしむべし。

 忍歌に曰く、
  忍びとて 道にそむきしぬすみせば 神や仏のいかで守らん
  もののふは 常に信心いたすべし 天にそむかばいかでよからん
  いつわりも何か苦しき 武士は忠ある道をせんと思はば


 正心條目

一、この道を生業とする者は最も顔色をやさしく穏やかで、心から「義」と「理」を正しくしなければならない。
 法に曰く、穏やかな顔は奇計の始めである。また、古語に、樊かいの怒りは、楊貴妃の笑みで関門が破られるのと同じようなものだ、といわれている。

一、人の真偽を黙識して、人に欺かれることがあってはならない。 
 語に曰く、他人に自分のことを知られなくても思い煩わない、他人のことを知らないと思いわずらう。

一、平生堅く真実を守り、戯れ言あるいは些細なことにも偽りを言ったり、行ってはならない。
 
 もしこれに反し、言葉では真実を述べていても言葉と行動が一致しないときは、「あれは嘘つきだ。用いてはならぬ」と衆人に言われて、捨て置かれることになる。

 法に曰く、妄言の常にない者は一戦のときに重要なことを言う。 
唐の羊祐は晋の大将であったが、敵の大将の陸孫が軍中で病気になったというのを聞いて、自分の旧友だからと薬を贈った。陸孫は疑う気配もなく受け取って服用したのである。
 
 いかに旧友の霊薬とはいえ、敵が送ってきたものであるから、普通ならば計略かと思うはずだが、羊祐は常に信実の至って深い人であったので、陸孫は薬を飲んだのである。敵将でさえこのようであるのだから、軍中の兵士たちが羊祐の言行を仰ぎ願ったことは十分に察することができよう。
 
 子路は常に信実が深く、約束は言うに及ばず、突然言い出したことでも、すぐにそのことを合わせ行って少しも遅いこともなく、万事につき真実誠のみのひとであったので、子路が一言言い出せば、その言葉が終わらない内に人々は信服したのである。

ゆえに孔子も、
「わずかな言葉で訴訟を裁き、人々を納得させることができるのは、弟子の中では仲由だけであろう」と言われている。
 あるとき、小制(国)の射という者が魯の国と会盟するとき、射が言うことには、子路と自分が約束するならば魯の国とは会盟をとりやめるということであった。
 
 同盟を信用せず、子路の一言の約束を信じるというのは、なかなかできることではない。
これは常日頃子路が真実深く、少しも偽りのない人であると人々が考えていたからである。
 
 しかし、真実とはいっても尾生の真実のようなものはよくない。 
 尾生はある女と橋の下で待ち合わせていたが、汐が満ちてきたのに橋の下から去ろうとせず、溺れて死んだのである。橋の上で待てば男として言葉を変えたことになると思ったのである。

一、この道を生業とする者は、いざ戦ともなれば主君のために大いに忠節を尽くし、大功を立てることだけを望み、主君の安否、国の存亡は自分一人の肩にかかっていると心得るべきである。成功し名を遂げて退身することこそ臣下の道で

 もし、わずかな義理にかかわり、わずかな恥を耐えようとせず、自分のために身を滅ぼしたなら、これを禄族とも匹夫の勇ともいうのである。
 ゆえに、主君から禄を受ける者は常に、人と話すごとに、このように言え。自分の命は、自分の思いのままに生きあるいは死ぬものではない。主君に売りわたしたからである。そのために、たとえ自分を踏み打つ者がいても、堪え忍ばなければならない。
 
 つまり、比丘尼同然の自分である、と。
 このように常に言う事に、少しも反してはいけない。このような者を打ちなさるのは比丘尼を打擲(ちょうちゃく)なさることであり、武士として比丘尼を打擲するのは会稽(かいけい)ではあってはならないからである。 ゆえに自分を踏み打たれるようなことはなさいませんように、と常に真実に言うべきである。
 
 法に曰く、わずかな義理に関わる者は栄名を成すことはできない、小さな恥をも嫌がる者は大功を立てることはできない、と。
孔子曰く、小事を忍ばなければ大謀を乱す、と。
 韓信は淮陰の人である。若いとき常に、好んで長剣を帯びていた。
 
 淮陰の少年たちが集まって言うには、彼韓信は長剣を好むけれども、心は臆病にちがいない。市中で恥をかかせてやろう、と一人の少年が韓信に向かって、死んでも構わなければ俺を刺してみろ、死にたくなければ俺の股の下をくぐれ、と言った。
 
 すると、韓信は仰ぎ見てから頭をたれ、伏して股の下をくぐった。
人々はこれを見て大いに笑った。
 韓信は大きな志を持っていたので、取るに足りない若者として死のうとは考えなかったのである。
 後に果たして、漢の高祖に仕えて数万の兵の大将となり、少勢をもって多勢の敵と戦っても一度も敗れることなく、楚の項羽を敗り、斎の国の諸侯になったのである。

 杜牧の詩に、「羞を包み恥を忍ぶ、これ男子」と作られているのもこの意味である

一、常に酒色欲の三つを堅く禁制し、ふけり楽しんではならない。 
酒色欲の三つは本来の自分の本心を奪う敵である。
 
 古来、酒色欲にふけり、陰謀を漏らしたり害を蒙った先人たちは勝って数えるべからざるなり法に曰く、表を見て裏を察知できないことのないように、察知しておきながらこれをおろそかにしないように、と。
 論語に曰く、人は遠慮がなく、必ず近憂あり、と。

 (略)
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 この所を忍心と題すること。
中華ではこの術を名付けて「間」と言い、「諜」と言い、「細作」と言い、「游偵」とも言う。

本邦において中国での呼び名を変えて、刃の心と書く字をもって名としたのには深い意味がある。
 この意味を悟らないでは、この道に足を踏み入れることさえ難しい。
そこで忍と名付けられた意義を著して「忍心」をこの題名とする。
 
 そもそも、「忍」の一字は刃の心と書く。このような字をもってこの術の名とするのはどうしてであろうか。この術全体が武勇を主旨とするからである。そのため、この術に志す者はひたすら武勇を心掛けるべきである。

 武勇を心掛けるにも掛け方がある。その心掛け方を知らなければ、心掛けても無益である。
 その心掛け方というのは、血気の勇を捨て去り、ただ一筋に義理の勇を心掛けるのである。同じ武勇と言っても義理の勇がなければ君子の勇ではない。 血気の勇というのは、一時の憤怒によって剛強を働かせても、次第に怒りが収まるに従って、いつまでも剛強の働きを心根に保つことができない。もし、心根に達して剛強を働かせても、もともと血気に乗じて起こった武勇であるから、大抵は自分の意志を通して勝とうと思ういきどりだけである。
 
 そのため、一貫した思慮もなく身をまっとうするための備えもないので、我が身のみを損ない、敵を滅亡させることなどできないのである。
 昔の人を考えてみよ。血気の勇を起こした人で一人でも難を逃れ、全敵を滅亡させた人があるだろうか。
 
 だからこそ仲尼や子路が血気の勇を戒めて、自ら暴虎馮河(ぼうこひょうが)して死んでも、悔やまない者には、くみしない 必ずや事に臨んでおそれ、陰謀を好んで成功させようとする者である。学ぶ者は詳しくこれを知っておくべきである。
 
 さて、義理の勇とは義理重々つまりつまってやむを得ず起こす勇である。この勇はいつまでも冷めることなく、ことに私心が無いのでまず自分の欲心にかち、前後を思案し決定して、なおかつ「必死であること、即ち生じること」というのを心の守りとして働くので、我が身をまっとうして敵を倒すのである。 これゆえに、軍讖にも柔よく剛を制す、弱よく強を制す、というのである。 さて、義理の勇を心掛けるには道がある。仁義忠信をよく知りよく行おうと思わなければ、義理の勇は起こすことができない。
 
 仁の道は言うに及ばず、義忠信の道も広大なものであるから、筆舌の及ぶところではないが、初学の糸口としておおよそのところを書かせていただく。

一、仁というのは温和慈愛の道理であって、心はまろやかに潤い、和やかで何事 にも憐れみ、恵みの心を持つことをいうのである。
 しかし、罪ある人を殺すのも、一人を切り落とすことで万人を救おうという心から起きることであるから、これもまた仁心である。 仁は人なり、とは注釈して仁心の無い者は人ではないということである。人の恩を忘れず、親に孝行するのも仁の心である。

一、義というのは断制裁割の道理であり、その時々の理によって変化し、時所の良い道理に従って行うことをいう。

 また恥を知るのも義である。
少しも二心無く主君に奉公し、主人が困窮したときもそばを離れず、あるいは主人の身が危ういときは先に立って討ち死になどするのは、義の大いなるところである。

 しかし非義の義といって、義に似て義ではないものがある。ときどきの理によって変化するのが義とは言っても、あるいは利欲に任せ、あるいは理にかなわないことに切れ離れるのは、義に似て義ではない。
 時の良い道理に従って行うのが義と言っても、私事の勝手な道理に従って、困窮するとき偸盗などをしておいて、時の良い道理であるというのは義に似て義ではない。

 恥を知るのは義であると言っても、恥じるべきでないことを恥じるのは義ではない。
主人に二心無く奉公して、一戦の時討ち死にするのは義であると言っても、無道の君主に二心無く奉公して討ち死にするのは義に似て義ではない。 子路が衛の出公輒という道をわきまえない人に仕えて、後に討ち死にした類である。
 
 だいたい軍法というのも剣術というのも忍術というのも、その他人を殺す術芸は、いずれも道をわきまえない者の勢力が強いのを討ち滅ぼすための術である。
 それをどうして、道をわきまえないの人の味方をしてその人を助けることがあるのか。

 問うて言う、いかに無道の君主であるといっても、仕えている間に君主の一大事が起きて、その時死ぬこともせず諸人に臆病者といわれる、このような時はどうすればいのか。
 答えて曰く、無道の君主であれば初めから仕えてはいけない。 もし無道の君主と知らずに仕えてしまったならば即刻退くべきである。
そうすればどうして無道の君主のために討ち死にするだろうか。

 問うて曰く、その無道の君主に行く末の奉公を構えばどうであるか。答えて曰く、無道は死に至るまで変わらない。強にして矯、と孔子が言っているのを守り、伯夷叔斎を師とするべきであるが、それほどの考えが無いのであれば忍の正道に至ることは不可能である。 なお口伝に古人曰く、死生は自らの運命であり、貧窮は自らのときである。
 天の定めを怨む者は運命を知らない。貧窮を怨む者は時を知らない者である、と。

一、忠というのは自分の心を尽くしつくすことをいう。
 たとえば、君主に仕えるときはその体をゆだね、自分の心をことごとくしつくして自身の心を少しも残さず、君主のためにその身が死ぬかもしれないことも、世帯を失うことになろうとも、恩愛の道をも打ち忘れた忠節のみを、何物にも勝る無二無三のものとすることをいうのである。
 
 親子、兄弟、夫婦、朋友などに対してもこのようであることを忠う。しかし、忠という字は中心と書くことからも、道理を当然のこととせずに、みだりに心底を尽くしても忠ではないのである。

一、信というのは、すべての物に真実誠のあることで、偽りやよこしまなことが毛頭無いことをいう。
 もし表面上は真実であっても、心底に少しでも偽りやきれい事があったならば、信ではない。
 信は五行における土の理である。四季のいずれにも土用があるように、仁にも義にも忠にも、信が無ければ仁ではなく義ではなく忠ではないのである。

右に述べた仁義忠信は外に求めて行うものではない。 人々は五行の理を受け取ってその身に十分備えており、心に固有しているものである。

天においてはこれを理という。
人においてはこれを性という。

聖賢も愚人も少しも変わりなく、同じように備わっているのである。
 しかし、聖賢は心正しく道理に明らかであるのに、愚人は心正しくなく道理にうといのはなぜであろうか。
 聖賢は天から授かり備わっている性の正しいところに基づき従って行動するから、心正しく道理に明らかなのである。
 愚人は六根の私欲に従って行動するため、心が暗く道が正しくないのである。 このように心は同じ物であるが人心というのものと道心というものと二種類ある。

人心というのは、眼で物を見てはその色に染まり、耳で聞いてはその声に執着し、鼻で嗅いでは香りにふけり、舌で味わっては五味に耽り、その身は男女の欲にふける。
 
 すべて六根の私欲に任せて、道理に外れていようとも、しばらくの間自分の身にさえ良いと思われる事ならば、それをしようとする。これが人心というものである。
 この人心に任せて行動する時は、自分のために良さそうに思っても、後に必ず身の害となり、最後には大悪事となるのである。
 
 古歌に、身を思う 心と中をたがわずば 身には心が徒となるものと詠まれているのもこの心のことである。
 身を思う心がかえって徒となるのはなぜかといえば、天の理にそむいているからである。
 愚人は我が身は天の理にそきながら神仏に祈る。これは叶わないことである。
 それゆえどのようであるかといえば、孔子曰く、罪を天に穫(か)って祈ることはできない、と。
 
 朱註に曰く、天はつまり理である。その尊さは並ぶものが無い。 
 その奥竈(かまどの神)は理に逆らって比べられるものではない。つまり理に逆らえばすなわち罪を天に穫る。どうしてその奥竈に媚びることができようか。よく祈ることで免れるのである、と。神は正直な頭に宿るものであるから、どうして非礼を受けようか。
 
 また道心というのは、眼に色を見ても不道の事は見ないでおこうと思い、耳に声を聞いても不道の事は聞くまいと思い、身に触るであろう事を思っても、みな道に叶わず、礼をもってしないことは、決して行わない。
 
 すべて、当分は身のために良くなくても、少しも私欲を考えずに、天性の正しいままに従って、私心の無いことを道心というのである。

 天の理に叶うときは神仏にもちぎることになるからである。
 ゆえに北野天神も、
心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神やまもらん
と詠まれている。
 
 さて、人として形のない者はいないわけであるから、聖賢であっても人心が無いということはない。
 天性を備えていない者もないから、愚人にも道心が無いわけではない。それゆえ聖賢・下愚・不肖の人も少しも変わりなく、人々の胸中の方寸の間に、道心と人心との二つの心がまじり存在するのである。
 
 間の道に志そうと思う人は、諸事万端について心が動くたびに、これは道心か、我が身のしもべとなる人心かをよく見通して、人心を道心と混同せぬように自らをつつしむ。
 そして、ただ一筋に本心の正しい道の心を我が主人として、道心の下知法度を人心に聞かせ従わせるように、日頃努め励ましていれば、人欲の心がおとろえて次第に私欲が薄くなっていき、かの現れがたい道心が、浮き雲の晴れた月のようにはっきりと現れるのである。
 
 ゆえに、自ら仁義忠信の道に通達するときは、自分の心が忍の一字となるのである。
 心が忍の一字となる時はなおさら、外部のもののために心を犯されることがないので、すべてについて少しも動揺することがなくなり、義理の勇になるのである。
 
 なおかつ、心が明らかであるから、機に臨み変に応じることは、玉が盤の上を転がるようである。このようであればどんなに城営が堅固であっても、忍び入って大功をなすことができないなどということはあり得ないのである。
 
 昔、秦の世に趙盾・知伯という二人の者がいて、趙の国を長年争っていた。
 ある時、知伯は趙盾の軍に包囲された。夜が明けたら討ち死にするしかないという時、知伯は臣下の程嬰(ていえい)・杵臼(しょきゅう)という二人を呼び寄せて、

「我が運命はここに極まった。夜が明けたら必ず討ち死にするだろう。お前たちは、私に真実の意志深く仕えてくれた。だから今夜ひそかに城を抜け出し、私の三歳になる子をかくまって、この子が成人したならば趙盾を亡ぼして我が生前の屈辱を晴らして欲しい」
と言った。
 
 程嬰・杵臼はこれを聞いて、
「臣下として主君と共に討ち死にさせていただくことは容易なことだ。三歳の子を隠し育てて、その命を全うさせることはとても難しい。しかし臣下としての道理を通すために、どうして容易な道を選んで困難を捨てることができようか。必ず必ず主君の仰せに従おう」と言って、二人は密かにその夜、闇に紛れて城から落ちのびたのである。
 
 夜が明けると、知伯はたちまちにして討ち死にした。残兵も無かったので、長年争ってきた趙の国はついに趙盾に支配された。
 さて、程嬰・杵臼の二人は知伯の遺児を隠そうとしていたが、趙盾はこれを聞きつけて何度もその子を討とうとした。

程嬰はこれを警戒して、杵臼に向かって尋ねた。
 「亡くなった主君は三歳の子を二人の臣下に託された。そこで、死んで敵をあざむくのと、命を生き長らえて子を守り立てるのとではどちらが難しいだろうか」

杵臼は答えて言った。
 「死は一心の義に向かう所に定まり、生は百慮の智恵を尽くす中にまっとうするものである。だから私は生きる方が難しいと考える」

程嬰は、
「それならば、私は難しい方を選んで、命をまっとうしよう。あなたは容易な方を選んで討ち死にして下さい」と言った。
 
 杵臼は喜んで承諾した。そして謀計を巡らせるために、杵臼は自分の子供で三歳になったのを、「旧君の遺児である」とあちこちで披露して子供を抱きかかえ、程嬰は主君の遺児を「私の子です」と言って、朝夕この子を養育した。
 
 そうして杵臼は山奥の住みかに隠れ、程嬰は趙盾の元に行って降服
を願い出た。
 趙盾は信用せず、降服を許さなかった。

程嬰は重ねて言った。
 「私は臣下として知伯の側に仕えて、その振る舞いを見てきましたが、ついには趙国を失ってしまうような人であることがわかりました。遠くあなた様の人徳について聞けば、知伯より優れていること実に、千里ものへだたりがあります。そこでおそれながら私は、趙盾様にお仕えし、亡国の人々のために有徳の主君を与えたいと願っております。もし私を臣下として認めて下さるなら、亡君知伯の遺児で三歳になる子を杵臼が養育して深く隠している場所を詳しくお教えしましょう。この子を亡き者として、趙国を末永く安定させて下さい」

趙盾はこれを聞いて、
「そこまで言うのならば嘘ではあるまい。程嬰は我が臣下に加わりたいと思って降服してきたのだ」と信じて、程嬰に武官の位を授けて側に仕えさせた。
 
 その後杵臼が子供を隠している場所を詳しく聞き取って、数千の兵を差し向けてこれを召し捕らえようとした。
杵臼はかねてから計画していた事なので、まだ膝の上に乗るような三歳の幼子を刺し殺して、「亡君知伯の子の運命ははかなく、謀計は露見した」とわめき叫んで、自分も切腹して果てた。

趙盾は、これで今後我が子孫の代を傾けようとする者はいなくなったと喜び安心した。程嬰に信頼を寄せ、さらに大禄を与え、高官の位を授けて国政を任せた。
 
 さてここに、知伯の遺児が程嬰の家で無事に成人したのである。 
程嬰は直ちに兵を発して趙盾を亡き者とし、ついに知伯の子に趙国を取り戻させたのである。
 この大功は程嬰の謀計から始まった事なので、趙王はこれを誉め、大禄を与えようとなさった。
 
 程嬰はこれを受けず、
「私が仕官し、禄を得ていやしくも生き長らえたなら、杵臼と共に計画した道に背くことになります」
と言って、杵臼の屍を埋めた古墳の前で自らの剣の上に伏して、杵臼と同じ苔の下に埋もれたのである。
 
 このような者こそを、道心に従って行う義理の勇者というのである。忍者たる者はこうありたいものだ、ということである。
 人心に従って行う血気の勇であれば、このような働きができようか。私の流れを汲む者は程嬰・杵臼を師とするべし。
万川集海 目録
家族:LP——匀匀;女儿——古怪灰原
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发表于 2004-3-12 14:07:04 |只看该作者

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好多日语啊~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(本能地开始翻译ing……)
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度 生を得て 滅せぬ者のあるべきか
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